女風は、用法・用量を守って正しく利用いたしましょう。

既婚ユーザー・ネギブロコの女性用風俗利用日記+日常譚

性の搾取

去る今月12日、元ジャニーズJr.のカウアン・オカモトさんが、日本外国特派員協会にて記者会見を開きました。Jr.時代(2012~2016年)、事務所の社長だった故・ジャニー喜多川氏から「15~20回にわたり性的被害を受けた」と告発する内容です。


私は2020年秋までエンタメ系雑誌の記者だったので、ジャニーズ所属のタレントさんとお会いする機会は時々ありました。ジャニ担ではなかったため、深く掘り下げるような取材はしたことがないし、事務所とのパイプも持っていないけれど、それでも今回のことに関して「そうですか。まぁそういうことも無くはないでしょうね」という印象です。

 

私には好きな歌手や俳優さんが沢山いるのですが、その中にいわゆるアイドル的な活動、そしてアイドル的な売り方をしている人はゼロ。若い時分にも、アイドルにハマった経験というのが一度もありません。キラキラしてるな、ライブに行ったら楽しいのかもしれないなとは思うけれど、昔からそのパフォーマンス(特に“口パク”での歌)に疑問を抱いていたため、応援する対象にはなり得なかったんですよね。恐らくそういう影響もあって、私はアイドルやタレントに対して何の夢も見ていないのだと思います。

だから、記者の仕事を始めて様々な現実を知っても、失望したり驚いたりすることは少なかった。代表的なのは整形、豊胸、植毛等の見た目関連、そして枕営業…というか“枕強要”等の性関連。

見た目については会えば一目瞭然だけれど、性については現場を押さえない限り虚実は分かりません。例えば「あの人は枕してるらしい」「誰々に手を付けられちゃったっぽい」との噂を聞いたとて、事実か否か確かめようがないし、別段確かめたいとも思わない。興味がない。

 

ただ、16年間業界の片隅に身を置いた者として言えるのは、「物凄い数の“エロオヤジ”達が生息している世界だ」ということ。

事務所であれマスコミであれ、組織内で絶大な権力を握っているのは大抵男性です。その中にあって、地位や立場を恥ずかしげもなく利用…いえ悪用し、“いろんなもの”を手に入れようとする輩は一定数いる。それはこの目で実際見てきたから断言できます。もちろん、真摯に仕事をしている方のほうが全然多いけれど、そうでない人間もゴロゴロいる。

 

さらに言えば、逆のことをする人達も存在します。つまり、自分を売り込むために“色”や“春”を武器として使う若者です。男女問わずいますし、私も副編集長という肩書きを得て以降、そういう交渉を持ち掛けられることは何度かありました。その度に「『ここまでしてメディアに出たい、売れたい』という気持ちは理解できなくもないが、努力する方向が間違っていると思う」と拒否したけれど、「これ、『じゃあギブ&テイクということで』って受け入れちゃう媒体もあるだろうな」と感じました。

露出が増えたからといって、ゴリ押しされたからといって、必ずしも売れるとは限らない──。それは承知の上で、「全く露出がないよりはいい。どうにかしてチャンスを掴みたい」と考えた末の“覚悟の行動”なのでしょう。よって、双方が納得しているなら別にいいというか、「どうぞご勝手に」と思っていた部分もあります。この“我関せず”の姿勢にも罪があると言われれば、或いはそうなのかもしれません。


余談ですけれども、記者となった2004年当時、早い段階で上司より「業界心得」的なものを教わりました。「この世界は思いの外、誘惑やトラップが多い。特にカネとオンナ…いや君の場合はカネとオトコに気を付けろ」。

具体的には、「1万円以下の心付けやお車代は受け取ってもいいが、それ以上はきっぱり断れ。“袖の下”は知らない間に何十万と持たされる巧妙なケースもあるから、とりわけ宴席では油断するな」「ゴルフ接待、クラブ接待、料亭接待までは受けてOK。御座敷接待、性接待は絶対にNG」という感じでした。

上司は性接待ではなく「色仕掛け」という表現を使っていましたが、意味合いは大体同じです。私はそれよりも「“知らない間に持たされる袖の下”って何⁉︎ めちゃくちゃ怖いんですけどー!」と感じ、先輩方に根掘り葉掘り尋ねて回った記憶があります。まぁ、各社の接待交際費が潤沢だった時代の話なので、現在ではあまり意味を成さない「業界心得」でしょうけどね。

 

ちなみに。長年ジャニーズファンをやっている友人に、今回の件について訊いたところ、「『何を今さら』って感じかな~。何十年も前から言われてることだし、裁判(2004年)でもクロってはっきり出てる。もちろん“あってはならないこと”っていうのは分かってるけど、ジャニーズ内ではそれが日常というか暗黙のルールなわけでしょ? だから私もそういうもんだと思ってる」と返ってきました。これは少し意外だったので、「…へぇ、そうなんだ」と一瞬間が空いてしまったっけ。

ジャニーズファンが全員こういう認識だとは思いませんが、ある程度把握している人達も多いんだろうなと予想します。マスコミも現状、NHKでチラッと報道しただけで、ニュース番組でも新聞でもほぼ扱っていません(*4月末現在)。忖度全開、臭い物に蓋、でございます。


加えてもう一つ言えるのは、“権力者同士における性の搾取は起きにくい”という点です。犠牲になるのは、いつだって力のない人、声を上げられない人、或いは声を上げても消されてしまう人──。


周知の通り、世界は決して平等ではありません。支配する者とされる者、搾取する者とされる者に分かれるし、支配されていること、搾取されていることそのものに気付いていなかったり、気付いていても知らないフリをする場合だってある。勇気を持ってその場で戦ったり、後々告発したりできる人もいれば、正面から向き合うと余計に苦しい思いをするから、一刻も早く忘れたい・過去を葬りたい・触れてほしくない人もいます。声を上げる自由があるのと同様、“声を上げない自由”もあると思う。

カウアンさんの行動は尊重されるべきものだと思うけれど、他の被害者について勝手に言及するのは違うというか、「それは全くの別問題だ」と感じています。みんながみんな、告発したいと思っているわけではないだろうに、自分以外のことを許可なく口にするのは明らかなルール違反。公にすることによって一層傷付いたり、心がえぐられたりする可能性があることは、当事者なら尚更想像できると思うのですが…。

 

芸能界に限らず、どの業界でもセクハラやパワハラ、性差別等はあります。悲しい話ですが、それらが全て無くなる日が、少なくとも私が生きている間に訪れるとは思えない。だからといって容認するわけでも我慢するわけでもないけれど、事態が急に好転するとは考えにくく、変わるとしても“少しずつ”。実際、一昔前は何ら問題なかった「今日も可愛いね」「綺麗だね」等は今言ったらセクハラでしょう。そういう一つひとつのことが、“ゆっくりだけれど確実に変わってきている証拠”だと思います。

もっとも、私がいた業界ではそんなのセクハラに入らないし、こちらも「あざま〜す(ありがとうございま〜すの省エネ版・笑)」とか適当に答えて終わり。挨拶みたいなものというか、「こんにちは」とか「お疲れさまです」とかと同義語くらいに思っていました。そもそも誰に言われようと不快な言葉じゃないですしね。あ、それだとつまり、女性から男性に言う「カッコイイ」「男前」とかもセクハラになるってことですよね? “内面の良いところ”は見つけるのも褒め称えるのも時間が掛かるから、単に手っ取り早く外見を褒めているだけなのになぁ。

何か、どんどん面倒くさい方向へと舵を切っているような気もします。“言葉狩り”にばかり躍起になって、肝心の“セクハラの根本”は置いてけぼり。それって意味あるんでしょうかねぇ…。

 

祝・声出し解禁

「最初にお知らせがあります。何と!今日のライブは声出しオッケーです‼︎ あ、マスクはしててほしいんだけど、声はいくらでも出しちゃってオッケー! 3年分の想い、思いっきりぶつけ合ってこうぜ〜‼︎‼︎‼︎」

ライブの冒頭でメンバーにこう告げられた瞬間、感激のあまり身震いし、いろんな気持ちが湧き上がってぶわっと涙が溢れました。

 

「3年分の想いをぶつけ合おう」という言葉をステージ上から投げ掛けられ、その声に「おーーーーーーーっ‼︎‼︎‼︎」と声量MAXで応えられる喜び。「そんなもんか? まだいけんだろ⁉︎ もっと来いよ!」と煽られた時や「全員で歌え!」とマイクを向けられた時、はたまたMCで笑わせてくれた時、感動させてくれた時等に、会場一体となってサビを歌ったり、心のままに笑ったり泣いたり、お馴染みのコール&レスポンスが出来たりする楽しさ、尊さ。その全てが嬉しくて愛おしくて、私は終始、マスクの下でちょっと気持ち悪いくらい(笑)ニヤついていたんじゃないかと思います。それほどまでに、“声出し解禁ライブを待ち望んでいた自分”が存在したことに、この日のライブで気付かされました。

 

ライブ・コンサート・舞台が軒並み中止となり、いつ再開できるのか…というより、「そもそも再開できる日なんて訪れるのか?」とすら思っていた3年前。出る側も作る側も観る側も、誰もが待って、もがいて、焦って、あがいて、模索し続けた日々だったと思います。そして配信ライブや無観客ライブ、拍手のみ(声出しはNG)の有観客ライブを経て、やっと声出しが解禁された有観客ライブ──。

その空間は想像以上に楽しくて幸せで、演者はもちろん、居合わせた全員と繋がれたというか、“音楽を通じて会話した。一つになれた”という感覚がものすご〜くありました。ライブ中幾度となく鳥肌が立ち、アドレナリンもドバドバ、際限なく出続けた。「『みんなの声を直接浴びたい!』って、ずっとずっと、ずーーーっと思ってた。もうね、楽しすぎて全然終わりたくない。帰りたくない、泊まりたい‼︎」。そう言われた時は、正直昇天しかけましたね、ハイ(笑)。

大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、音楽大好き人間の私にとっては、まさに“生きている喜び”を全身で感じまくった2時間半でした。最高のパフォーマンスで魅了してくれて、嬉しい言葉をいっぱい聴かせてくれて、本当に本当にありがとう推しの皆さま! めーっちゃ愛してる♡♡♡

 

それと、これは余談ですけれども、ライブ参戦というのは(ジャンルによっては)結構な体力を要します。私はクラシック、ジャズ、ポップス、歌謡曲、フォーク、ロック、ビジュアル系、ヒップホップ等割と何でも聴きますが、今回のライブは激しめのカテゴリーに入るため、座席はあれども開演したら観客は皆立ち上がり、終演までスタンディングを貫くスタイル。つまり、2時間以上立ったままコールしたり拳を突き上げたり踊り狂ったりするわけでございます。これを3年ぶりにやったらば、疲れやダメージが翌日に残る残る(笑)。

コロナ前までは定期的にライブ参戦しておりましたゆえ、意識せずとも自然にトレーニング出来ていたのでありましょう。ライブ中、疲れたり「しんどい」と感じた経験はほぼなかったのに、3年空いたせいか結構キツイものが…(泣)。冷静に考えたら、“2時間集中して音楽にノリ続ける”というのは日常生活ではなかなか取らない行動ですし、大なり小なり疲労感があって当然のような気も致します。今回は疲れさえも「昨日の余韻♪」として味わうことが出来たけれど、次回に備えて“ライブ参戦用の体力作り”を真剣に考えたほうがいいのかもしれません。まぁ、ライブにまつわるアレコレをこうして考えられること自体、めちゃくちゃ嬉しいし楽しいんですけどね♡ 

 

兎にも角にも、声出しライブってやっぱり最高~!

 

 

《小噺 三十五. キスマーク》

過日のプレイ中。セラピスト・Aさん(仮名)が体中を優しくリップしてくれ、「気持ちいいな〜、幸せだな〜」とうっとりしていたら、肩と首の境目あたりに突如、軽い痛みが走りました。「ねぇ、今何かした?」と尋ねてみますれば──

「あ、ごめん痛かった? キスマーク付けてたとこなんだぁ♡」


いやいや、「『付けてたとこなんだぁ♡』、ニコ&キラ♪」じゃねぇですよ(笑)。付けるにしても、そういう場合はこちらの許可を取ってからじゃないのん? そしてそして、下手をすれば夫に発見されてしまうような箇所には付けないのが鉄則じゃないのん? 近頃汗ばむ気候の日も結構あるというのに、しばらく“トップスはタートルネック限定”で過ごせとでも言うのでありましょうか…?

 

Aさんとは約4ヶ月のお付き合いですが、数多いるお気に入りセラピストさんの中で、彼はだいぶ若い部類に入ります。まだ20代半ばだし、セラピストとしての経験も浅いので、既婚者(+第三者に気付かれてしまうような場所)にキスマークを付けるのはいろんな意味で避けたほうが無難だとか、「アラフォーともなればキスマークが消えるのも若い頃より時間が掛かるわけですからして、そこのところを考慮して薄めに付けてくれると誠にありがたい」と思っているユーザー(←私でございます・笑)がいることだとかは把握していないのかもしれません。

その証拠に、いかにも“ザ・キスマーク”という感じで、めちゃくちゃくっきりはっきり付けてくれちゃっていました。結局、完全に消えるまでの約5日間は、数少ない襟付きのシャツ着用を筆頭に、コンシーラーやら髪型やらネックレスやらで何とか誤魔化しつつ暮らす日々。してもいない“浮気”だとか“不倫”だとかをあたかもしているような錯覚に陥り(笑)、何となく後ろめたい気持ちを抱えたまま生活したのでありました。


女風に限ったことではないけれど、何事も加減というか塩梅というか、そういうものが大切だったりしますよねー。勝手ながら、「Aさんには是非、今後そのあたりを学んでもらえたらとっても嬉しいなぁ」などと思ったりした次第です、ハイ(笑)。

 

 

挙動不審

数日前、ローソンにてのお話です。

とある舞台のチケットをローチケで予約していた私は、ローソンに入るやいなや、店内の一番奥にあるロッピーへ一直線。すると、途中でめちゃくちゃ挙動不審なおじいさん(推定75歳くらい)に出くわしました。彼は商品も鞄も財布も持っておらず、見たところ完全なる手ぶら。あたりをキョロキョロ見渡し、ちっとも落ち着きがなくて怪しさ満点の立ち姿です。

そのとき脳裏に浮かんだのは、いつぞやのニュースで見た“高齢者の万引きが年々増加”というフレーズ…。けれど、「万一事件が起きても、コンビニには防犯カメラというものがあるじゃないか。それに、そもそも私は万引きGメンとかじゃないわけで、現場を目撃したとてどうにも出来ない」と思いスルー。

 

そしてロッピーで引き換え券を出力し、チケットを発券してもらうべくレジへ向かうと、見事に誰もいません(笑)。普通の買い物ならセルフレジで事足りますが、チケットの発券は有人レジでないと無理ですからねぇ。「姿は見えねど店内には居るはず」と信じ、「すいませ〜ん」と店員さんを呼んでみます。案の定、「はーい!」とどこからか走ってきて対応してくれ、無事チケットをゲット。印字された座席番号を確認してグフグフしつつ出口へ向かおうと振り返ったら、いつの間にかさっきのおじいさんが私の後ろに並んでいました。

つまり何の事は無い、「セルフレジの使い方が分からない」、或いは「お酒や煙草を買いたいから有人レジを使いたいんだけども、何らかの理由で店員さんを呼べずに店内の様子を窺っていた」というだけのことだったのでありましょう。おじいさん、思いきり疑ってしまってごめんよぅ。でもでも、実際すんごく怪しかったんだよぅ…(汗)。

 

 

映像が持つ力

夜ごはんを食べながら、何とはなしにテレビ(TBS)を観ていた時のこと。本編→CMへ移行すると、もうじき始まる新ドラマの宣伝映像が流れてきました。私はそのわずか15秒の映像に動揺し、箸を持つ手…いえ、手のみならず全身が硬直してしまった。


走行中の電車が急停車し、バランスを崩した乗客たちは立っていられず次々膝をつく──そのシーンは冒頭の数秒間だけだったのに、12年前の3月11日が鮮明にフラッシュバックし、あの日の恐怖と記憶が一瞬で蘇った。東京にいた私(*震災発生時刻、私は地下鉄に乗っていました。詳細を知りたい方は3/24アップの記事「喉元過ぎても熱さを忘れず」を参照願います)でさえそうなのだから、被災地でいろいろなものを目にし、そして体験した方々が、地震津波の映像を見る度に心をえぐられたり、PTSDを発症したりするのは当然なのかもしれません。


震災後、テレビ番組で大災害のことを扱う場合、「このあと津波の映像が流れます」「ショッキングな映像が流れますのでご注意ください」等予めテロップで知らせてくれるようになりました。ありがたいとは思いつつも、これまではどこか他人事というか、当事者意識に欠けていたような気がします。

でも、フィクションとはいえ実体験に似た映像を予期せず見てしまい、「怖い」「嫌だ」「見たくない」という感情がぶわっと溢れてきた。災害に限らず、事件や事故、いじめ、虐待、性犯罪等も同じだろうなと予想します。やはり、“目から入る情報量&インパクト”というのは物凄いですからね…。時間を要さずトラウマを呼び起こすというか、“過去のその地点”まで一気に引き戻してしまう力がある。

 

もちろん、事実をありのままに伝えることは必要だし、報道機関に課せられた役割の一つだろうと思います。原爆や阪神大震災だって、写真及び映像に残してくれた人、記録してくれた人がいるから、どれほどの惨状だったかを詳しく知ることができ、そこから多くを学ぶことができます。

ただ、3.11については「振り返るのは今じゃなくてもっと先のことだ」と個人的には感じています。たった12年では傷が癒えていない人のほうが多いだろうし、まだまだ生々しく思い出してしんどくなる。実際私も、以降TBSを視聴していません。新ドラマの宣伝というのはいつ流れるか分からないので、見たくなくても見てしまう可能性が結構あります。であれば、“その局には当面チャンネルを合わせない”という選択をするのが一番安全です。それくらい、あの映像を偶然見てしまうことを心も体も拒否している…。

なお、ドラマは「ペンディングトレイン」というタイトルだったと思います。もし視聴予定の方がいましたら、その点ご留意くださいませ。

 

マメケア。

「ねぇねぇ、ちょっと手の平見せてもらってもいい?」

「手の平? はい、どうぞ」

「あぁ、なるほど。昨日ジムで筋トレした?」

「したよー♪ 昨日っていうか、さっきだけどね」

「そっかそっか。バーベル挙げまくった系?」

「うん、よく分かるね。結構重いの挙げれたよ」

「だろうね~。両手にマメ出来てるもん」

「え? あ、本当だ! 全然気付かなかった」

「あのね、私筋肉大好きだから鍛えてくれるのすごい嬉しいんだけどね。マメって、肌に当たると意外と痛いんだよねぇ…。試しに自分の腕、マッサージしてみて」

「うん、分かった。………え、痛っ! めっちゃザラザラしてるしかなり痛いね…。良かれと思ってジム行ってきたんだけど、女性の肌に触れるのに、この手じゃ失礼だよね。ごめん、ちゃんと埋め合わせするから許してくれる?」

 

実際、彼はきっちり埋め合わせしてくれましたし、筋肉フェチのお客(=私)に合わせて「施術前にパンプアップ!」と努力をしてくれた結果マメを作ってしまっただけなので、不快な気持ちには全然なりませんでした。ただ、「手のケアってやっぱり重要だなぁ」と感じたことも事実です。

 

私には「不動の3大フェチ」がありまして、それが①声、②筋肉、③手、でございます。よって、もともと男性の手に執着があるといいますか(笑)、生意気ながら“ジャッジする目”というのがだいぶ厳しいであろう自覚があります。長く美しい指+形の整った爪+指毛がない+大きい手…というのが理想だけれど、その前に、清潔感があるとか手荒れやささくれがないとか、基本的な部分で“合格ラインに達しない手”というのも相当数にのぼる(上からですみません・汗)。

 

だから、お顔がどんなにタイプの殿方でも、“生理的に受け付けない手”の持ち主だと、私の場合「この人に触られたい」「彼とエロいことをしてみたい」という気持ちにはなりません。割合として海外の方に多い、“指毛フッサフサのイケメン”に肩を引き寄せられたとて、申し訳ないけど反射的に悪寒が走りまくってしまう(笑)。逆に言うと、お顔のタイプ度はまずまずでも、手がもんのすご~く綺麗なら「素敵♡」となったりも致します。

 

女風のセラピストというのは、マッサージをはじめ、それ以外においても“お客の肌”、そして“デリケートな部分”に触れ続ける仕事です。私は、ハンドケアをきちんとしていないセラピストさんに会ったことはないし、この日の彼も悪気があったわけではないから今後気を付けることと思いますが、セラピストたるもの、手は出来るだけ綺麗なほうがいいなぁ♡ もちろん、セラピストに限った話ではないけれど、「手が綺麗」で得をすることはあっても、損をすることはないと予想しております、ハイ♪

 

 

喉元過ぎても熱さを忘れず

朝、電車に乗っていた時のこと。私の左隣に、中東の方っぽい男性2人組が座りました。彼らの会話は半分くらいが英語で、残りはアラビア語(多分)と、時折日本語が単語で挟まる感じ。「ベップ」や「オンセン」は「今度行くんだろうな~」という想像がつくけれど、「ゼイキン」「ネンキン」「ホケン」とかは、「結構切実なお話なのかしら…?」と興味が沸き、うっすら聞き耳を立ててみたりみなかったり(笑)。

 

しばらくすると、2人は固い握手を交わし、片方の男性が降車。3駅分走行した後、突如「ビーーーーーーーッ!!!」という音が大音量で鳴り響き、電車が全く動かない事態に。「ホームで緊急停止ボタンが押された」そうで、「安全確認が取れ次第の発車となります」とアナウンスされています。私は時間に余裕があったし、「あぁそうですか」と思いのんびり待っていたのですが、隣の殿方はかなりキョロキョロして焦っている様子。「良いスーツ着てるし、これから商談とかなのかな。だとしたら遅刻は避けたいところだよねぇ」などと妄想していると、当の本人が話し掛けてきました(*英語でしたが意訳します)。

 

「すみません、これ何の音ですか?」

「緊急停止ボタンが押されただけです。特に心配ないと思いますよ」

「それなら良かったです。何か事件が起きたのかと…」

「大丈夫、大丈夫。多分、少し待てば動き出しますから」

「そうですか。日本語が分からないので、アナウンスの内容が理解できず不安でした。教えてくれてありがとう」

 

そうか、そりゃそうだよな~と思いました。私だって、異国で警告音が鳴り、その説明が全然聞き取れなかったら怖いし不安になる。幸い、海外でそういう目に遭ったことはないけれど、それは単にラッキーだっただけで、「今後もない」という保証はどこにもありません。

 

 

遡ること、12年前。3月11日の14時46分──。皆さんは、どこで何をされていたでしょうか。


私はと言いますと、当時エンタメ系雑誌の記者だったため、地下鉄で取材先へ向かっている最中でした。インタビューは15時スタート、目的駅には14時50分着予定。いくら駅近のレコード会社とはいえ、「かなりギリギリだな」と少し慌てていたように思います。立ったまま鞄の中をまさぐり、ICレコーダーを探していたら、体…というか、脳天から“ぐわん”と全身を、それはもう尋常ならざる力で揺さぶられた。

「これはおかしい、絶対変だ」と思っているうちに、乗っている車両がゆっくりゆっくり、けれども確実に、信じられないほど大きく左右に揺れ始めたのです。その揺れがどんどんダイナミックさを増して、みんな立っていられなくなって、車体が横転していないことが不思議なくらいだった。“新種の生命体”の如く、車両が意志を持って動いているんじゃないか?と錯覚しそうになるほど、それまでの人生で見たことのない動き方をしていました。

揺れが収まっても、何が起きているのか、これが現実なのか夢なのかがよく分からない。とりあえず、床から膝を離して立ち上がると、数メートル先にいた女子高生が大きな叫び声をあげました。閉所恐怖症とかなのかもしれないけれど、両手で頭を抱え、堰を切ったように激しく泣き叫んでいます。その声につられたのか、車両全体が段々パニック気味に。私はあまりの現実感のなさに、「映画みたいだなぁ。っていうか、今停まってるとこ、ホームじゃなくて駅と駅の間だよね? 私たちって外出れるのかな…? ここで死ぬとしても、生き埋めとかは嫌だなぁ…」と至極冷静に考えていました。

その時です。車掌さんが、やや低めの声で、且つゆっくり落ち着いた口調でアナウンスしてくれました。

「乗客の皆さまにお伝え致します。まずは落ち着いてください。現在、状況を確認している最中ですので、このまま少々お待ちください。地下鉄車内は安全です。どうか慌てずにお待ちください」

 

私はもともと声フェチですが、この時の車掌さんの“素敵な声”は、いろんなことをひっくるめて一生忘れないと思います。

例えるなら、NHKアナウンサーのように落ち着いた感じで、冷静に、滑舌よく、いい意味で“感情を極力排除した喋り方”に聞こえました。恐らく、乗客が取り乱さないよう、敢えてそういう口調を選択したんでしょうね。もし、車掌さん自身も慌てふためいた感じで「落ち着いてくださいっ‼︎ 大丈夫です!」などとアナウンスしようものならそれこそ不安を煽るだけですから、ホームに着いてドアが開くまでの間、ずーっと冷静に、淡々と事実を伝え続けてくれたあの車掌さんには心から感謝しています。私が言うのもおこがましいけれど、終始凛とした、見事な対応でした。

 

そして。ドアが開き、長い長い階段を上って地上へ出ると、「映画みたいだなぁ」再び。道にはバイクやら看板やらが倒れ、建物が傾いて窓ガラスが飛び散り、路上には人々が溢れている。青山という場所柄だと思うのですが、“人々”の中に外国人が占める割合が非常に高く、彼らのパニックぶりたるや本当に凄まじかった。

我々日本人は、幼い頃から防災訓練を受けているし、「地震や災害は共存しなければいけない相手」だと分かって暮らしています。でも、大抵の外国人はそうじゃない。日本人は、未曾有の大地震に見舞われた直後であれ、「周りの人たちとどう協力し合ったらいいか」「どう動くのが最善か」を考えて行動できる。顕著だったのが、歩道での立ち振る舞いです。

私が地上へ出た頃には、歩道は既に人でいっぱい。どこを見渡しても、行列が大移動しているような感じでした。そんな中でも、日本人は自然と“北へ向かう人は右側通行、南へ向かう人は左側通行”のように、お互いぶつからないよう工夫して歩いていた。私もそれが当然だと思っていました。なれど、多くの外国人にはそういう意識がないらしく、“暗黙のルール”を無視して逆走し、バンバン人にぶつかりながら歩いたり、全力で逃げ惑ったりしているのです。そんなの誰も得しないし、「いやいや周りをご覧なさいよ」と思いましたが、“地震そのもの”に耐性がなくてめちゃくちゃパニクっているから、冷静な判断を求めるのは酷な気がしないでもありません。この時、「日頃の訓練とか備えとかって本当に大事だな。いざって時にこうも差が出るんだから…」と感じました。

 

その後、青山から会社がある神保町まで約2時間歩き続け、その日は編集部に泊まり、翌朝ニュースで東北の惨状を知りました。私が担当している歌手・俳優の中にも東北出身の方が何名かいらしたので、「彼らの実家や友人は…?」と心配になったし、とにかく電話がつながらないから、自分の友達や仕事関係者の安否も分からない。命が助かってありがたい気持ちはもちろんあったけれど、建物の倒壊や津波の映像を繰り返し見るのがどうにも辛くて、途中からテレビを消してラジオに切り替えたと記憶しています。“生かされていること”に感謝するとともに、報道のあり方について、深く考える日々でもありました。

 

干支がひと回りして、今度はコロナウイルスが出現。コロナに罹患して命を落とす人も、“コロナから受ける様々な影響”で命を落とす人もいました。今月13日からはマスクを着けるか否かも個人の判断となり、最近はお花見シーズンだからか、外でお酒を飲む人を結構見かけます。『喉元過ぎれば熱さを忘れる』とはよく言ったものです。お酒を飲むなとは言わないけれど、「そこまで酔っ払うなら、いろいろ撒き散らすなら、外じゃなく家でやってくれよ」と心底思う。

“忘却する能力”というのは、時にとても大事です。忘れることでしか、前に進めない時だって沢山ありますから。ただ、“忘れてはいけないこと”というのも当然ある。個人的には、コロナ前と同じような世の中になるとは思っていないし、それを望んでもいません。働き方や意識の変化、家での楽しみ方等を「まるで無かったもの」のようにしてしまうのは、すごくすごく勿体無いと思う。私自身は、この3年で学んだことや得た教訓を活かしながら、これからの人生を生きていきたいなと思っています。