女風は、用法・用量を守って正しく利用いたしましょう。

既婚ユーザー・ネギブロコの女性用風俗利用日記+日常譚

紙一重

昨日(8/1)、再放送中のドラマ「腐女子、うっかりゲイに告る」(NHK)の最終話を観ました。全8回のうち1&2話は見逃してしまったけれど、「本当に観て良かった」と思えるドラマでした。

 

最終話の前半、心がズキンと痛くなる台詞が2つありました。

 

1つ目。主人公・ジュンは、彼女・三浦さんと共にファーレンハイト(故人)の自宅を訪ねます。ファーレンハイトSNS上の友人だった人で、ジュンと同じくゲイ&Queen好き。ファーレンハイトが自ら命を絶つ前、ジュンにある頼み事をしていたので、その願いを叶えるための訪問でした。玄関先でジュンを出迎えたファーレンハイトの母親は、「あなたがジュンさん?」と確認した後、隣に立っている三浦さんに目をやります。「私は彼女…っていうか元カノっていうか」と自己紹介し出した三浦さんの言葉を、「少し黙ってて」と遮るジュン。ジュンは自分の言葉で、且つ母親の目をしっかり見つめながら「僕も同性愛者です。三浦さんとはダメでした。僕が“好きな男性を想う気持ち”と、“三浦さんを想う気持ち”は全然違います」と告げます。私がショックを受けたのは、それを聞いた母親の発言です。

 

異性愛者にはなれなかったんだ。治らなかったんだ…」

 

ものすごく驚きました。“治る”という表現は、病気やケガの時に用いるものだと思っていたから…。でもその直後、ジュンの言葉に救われました。母親の発言に一瞬表情を曇らせながらも、「治るとか治らないとかじゃないんです。ただこういうふうに生まれてきただけで、理由も原因もないんです」ときっぱり言った。

 

2つ目。恋人・マコトさん(だいぶ年上。妻子持ち)との別れのシーン。マコトさんが、妻との出会いや結婚するに至った経緯をジュンに話す場面です。

 

「僕の頃は、『同性愛者なんて生き物は失敗作だ』という風潮があってね」

 

失敗作…? 失敗作って何だろう。同じ人間として生まれてきたのに、異性愛者かどうかだけで“成功”だの“失敗”だの判断されるってこと? 人間が人間に対して「失敗作」とか言うの⁉ そんなの怖すぎるし、違和感しかない。みんな、他人のことがそこまで気になるのかなぁ。正直、周りの人が異性愛者か同性愛者かなんてどうでもいいけどなぁ。「個人的に仲良くなったから打ち明ける」とかなら嬉しいけれど、告げられたとしても「あーそうなのー」くらい。実際そういう友人が数名いますが、あまりに私の反応が薄いせいか、逆に「え⁉」とか「それだけ?」とか言われることもあったな(笑)。うち1人に「引かないの?」と訊かれて「うん。引く理由特にないし」と答えたら、その場で泣き出して困ったこともありました。賑わっているカフェの店内だったので、「ちょっと! 私が泣かせたみたいになってるじゃん‼ やめてよ白い目で見られてるよ~ぅ」と、こっちまで泣きそうでした(笑)。

 

彼とは今も友人ですが、その時セクシュアリティのことでかなり悩んでいたというか、人生の中でもだいぶ辛い時期だったようでした。当時、私は30代前半、彼は20代半ばだったので、もしかしたら同年代では理解してくれる人…いえ、サラッと受け流してくれる人がいなかったのかもしれません。彼は容姿も性格もいいから、黙っていても女性のほうからどんどん寄ってくる。そのことも彼には重荷というか、「好意をもたれる」→「アプローチされる」→「断る」という流れ自体に疲れ果てていた。「男友達には(ゲイだと)言えないし、女友達は恋愛対象として見てくる。職場でも隠さないといけないから大変、もう疲れた」と嘆いていたので、「別にそのままにしとけばいいんじゃない? ゲイでもゲイじゃなくても、イイ男がわんさかアプローチされるのは当たり前だよ。だからお断りする時に罪悪感とか要らないと思う。苦しい時は、私でよければいつでも話聞くし」と言ったらまた泣いていたっけ。

 

容姿がいいというのは、良いことのほうが圧倒的に多いけれど、それによって背負い込む苦労も確実にあります。私は仕事柄“美男美女慣れ”していることもあり、相当イケメンでも初対面で容姿のことにはまず触れません。美女の場合、嫌がる人はいないので「キレイ」「カワイイ」「美しい」はすぐ言いますが、美男は「またか…」「顔だけかよ」とウンザリした表情をすることが多い。大抵、“褒められたいポイント”は別にあるのです。美女は素直に「ありがとう♡」と喜んでくれて、その笑顔を見てまた「カワイイな♪」と思うけれど、美男はものすごく繊細というか“気にしぃ”というか、「結局そこしか見てないんですね」感が強い。あくまで経験上ですが、私の中の『美男美女取扱説明書』にはそう書いてございます(笑)。

 

さて、先述の彼は現在、LGBTQに理解ある環境に身を置いているため、当時のように「聞いて~‼」と連絡してくることは減りました。でも、いつぞやベロベロに酔っ払って「あの時君が『あ、そう』って普通に聞いてくれてめっちゃ嬉しかった。『この人には嘘つかなくてもいいんだ』と思った」と言っていました。私もマイノリティだから、その気持ちは本当によく分かる。嘘をついたほうが楽なシーンでは上手に嘘をつくけれど、“嘘ばかり”の生活では心が疲弊してしまう。誰だって「本音を吐き出せる場所」や「本心を話せる相手」が必要です。私の場合、それが(コロナ前までは)女風のセラピストさんだったけれど、今はこのブログになりました。長年の親友であっても、“夫と今日まで一度もセックスしたことがない”という事実は話せません。だから「本音を書ける場所」は本当にありがたく、貴重な存在です。精神衛生上、大変助かっています。

 

話が逸れましたね(笑)。物語の後半、ジュンは心の中で「三浦さんと出会って、僕の人生は変わった」とつぶやきます。私の目にも、そう映りました。以前のジュンだったら、ファーレンハイトの母親に対して、あんな言葉は出なかったと思います。しかも母親の目をしっかり見ながら。“強い意志”と彼の成長が垣間見えて、すごく嬉しかった。今後はもっともっと変わっていけるだろうし、そう期待させるエンディングでした。ジュンと三浦さん──恋人関係は破綻したけれど、友人関係はずっと続くんじゃないかな。そうあって欲しいな。

 

生きていく中で、誰とどのタイミングで出会うか。それはとっても重要で、出会いはそれこそ“人生の財産”だと思います。ジュンは高校生の時に三浦さんと出会って、人生を自ら好転させた。偶然にしろ必然にしろ2人は出会い、影響を与え合い、やがて“かけがえのない友”となりました。死を選んだファーレンハイトと、新たな一歩を踏み出したジュン。彼らは同一というか紙一重というか、ジュンのほうがそうなっていた可能性もあります。特に思春期は精神が不安定だし、セクシュアリティ以外にも悩みは山のようにある。衝動的に「死にたい」と思ったら実行してしまえる勢いも持ち合わせているので、やはり周囲のサポートは必要でしょう。

 

息子が死してなお、彼のセクシュアリティや諸々の現実を受け入れていないように見えるファーレンハイトの母親。分からないなりに、息子のセクシュアリティや生き方を認め、理解しよう、寄り添おうとするジュンの母親。この点でも、ジュンは恵まれていると思います。

 

たとえ理解できなくてもいい、肯定しなくてもいい。ただし、全面否定するのだけは勘弁してもらいたい。「この人は自分とは違うんだな」で終わりにして、「それは変だ」とか「おかしい」とか「普通じゃない」とか、相手を追い込んだり攻撃したりしないで欲しい。だってお互いに疲れるし、第一すご~く面倒じゃないですか(笑)。昨今の“ポテサラ論争”にしてもそうだけれど、私は声を大にして言いたいです。

 

「心の中で何を思おうと、それは個人の自由。でもわざわざ口に出さなくて結構。ポテサラを店で買おうが家で作ろうが、異性が好きだろうが同性が好きだろうが、子供を産もうが産むまいが、そんなことは放っといてくれ!」