女風は、用法・用量を守って正しく利用いたしましょう。

既婚ユーザー・ネギブロコの女性用風俗利用日記+日常譚

《小噺 十二. 言葉の不思議》

「久しぶりだね。元気だった?」

この言葉に込められている意味は、かける相手が誰であっても、大抵そんなに深くないんじゃないかなと思います。ごく気軽な挨拶と言いますか、「こんにちは」と同じくらいの感覚で発している人も多いのではないでしょうか。私も日頃からよく使うし、別段何も気にしていなかったのですが、先日お気に入りセラピストさんと話していて「なるほど〜!」と思うことがありました。

 

「実は僕、(リピーター客との)文字でのやり取りでも対面した時でも、『久しぶり』っていう言葉をなるべく使わないようにしてるんです。こちらに悪気とか意図とかがなくても、お客さん側はマイナスの意味に捉えてしまう場合もあるので」

「え? 『久しぶり』って、マイナスの要素ありましたっけ?」

「いや。全然ないんだけど、セラピストになって少し経った頃、一度お客さんに言われたことがあって。僕としては単なる挨拶のつもりだったのに、『前に指名した時から、だいぶ間開いちゃったよね。ごめんね』って…。その瞬間、お客さんによっては『“ご予約頂くのが”お久しぶりですね』って受け取っちゃう人もいるんだと気が付きました。だからそれ以降、例えば隔週で予約してくれるお客さんにも、数ヶ月に一度予約してくれるお客さんにも同じ対応というか、“どれくらいの期間会っていないか”を感じさせない言葉のかけ方をするように心掛けてます」

 

言葉って本当に面白いな、不思議だなと思いました。私は「久しぶり」をそういうふうに捉えたことがなかったため、その考え方はすっごく新鮮でした。意味自体は変わらなくとも、受け取り方や関係性次第で、実際は幾通りもあるのかもしれません。

 

いい機会なので、[久しぶり]を辞書で引いてみますと──

◎久しぶり/しばらくぶりであること。前にそのことを経験してから、再び同じことになるまでに長い日数のあったこと。

ほうほう、“長い日数”と来ましたか。さすれば確かに、「久しぶりですね」=「長い日数ご予約頂けませんでしたね」と受け取れなくもない…のかもしれない(笑)。

 

そういえば、お気に入りセラピストさん達も、別れ際の台詞がみんな個性的というか、「似ているようで違うな」と感じることも多いです。例えば。

「今日も楽しかったよ。ありがとう」(Aさん)

「今日は楽しかったよ。いつもありがとう」(Bさん)

この2つは、字面は非常に似ていますが、ニュアンスは全く異なります。

 

Aさんのほうは「毎回楽しいけど、今日も楽しかった」の意ですね。つまり、「リピート指名ありがとう」の意味合いが強め。一方Bさんは、「リピート指名ありがとう」の意味を「いつも」で含ませつつ、フォーカスしているのはあくまで「今日」。敢えて「今日“は”楽しかった」と伝えることで、“会った当日”を重要視していることがうかがえます。しかしながら、人によっては…例に出して申し訳ないけれど(汗)、我が夫のようにマイナス思考タイプの人が耳にすると、「今日“は”楽しかったよ(=普段“は”楽しくないけどね)」に聞こえてしまう可能性もあるわけです。

 

一つの行動、或いは一つの言葉に対して、“それに関わった人”が同時に複数存在する場合、受け取り方や感じ方は、その人数分だけあります。

私は芥川龍之介著の短篇小説「藪の中」(←とある事件について、複数の人が証言をするものの、全員言うことや視点が異なっており、見事に食い違う。結局、最後まで真相は分からない…という物語)が大好きで、現実世界でそういうシーンに出会うと、「出ました! 必殺『藪の中』現象‼︎」と思い、嬉しくてニヤついてしまいそうになります(笑)。初めて読んだのは中学生の時だったけれど、何十回読んでも面白いし、他でもない“自分の意見”が変わったりすることがとっても興味深いんですよね。年齢や経験を重ねると、「昔はこの人の言ってることが正しいような気がしてたけど、やっぱり胡散くさいかも…。というか、本当のことを証言してる人なんて、この中にいるんだろうか? いや、そもそも“本当のこと”って何だ?」とか、10代の頃では届かなったところにまで思考が及んだりもします。だからこそ、同じ本を、何十年という歳月をかけて繰り返し読んだり、同じ歌を数年ぶりに聴いたりするのって楽しいんだろうなぁと感じています。

 

話の枝葉が更に広がってしまいますが(汗)、歌のタイトルとか歌詞とかって、「大人になってから本当の意味を知った」ってこと、結構ありませんか? 昔は英語が全然分からなかったので、洋楽はタイトルの(単語の)直訳と、メロディーの雰囲気だけで内容を想像していました。超有名曲である、マドンナの「Like A Virgin」や、マイケル・ジャクソンの「Human Nature」でさえも、それはそれは盛大に間違った解釈をしていた。「処女好きの人が主役って…一体どんな歌?」とか、「人類と自然界を描いた、めっちゃ壮大な曲なのかなぁ」とか本気で思っていたっけ(笑)。当時はネットも未発達だったから、確認する術がなかったんですよね。今は「何でもすぐ調べられて便利だな、助かるな」と思うけれど、“時代を超えて訪れる、突然の答え合わせ”が減ってしまうのは、少し寂しいような気もしています。

 

邦楽の歌詞で特に印象に残っているのは、大橋純子さんの「シルエット・ロマンス」(来生えつこ作詞、来生たかお作曲)と、西城秀樹さんの「ラスト・シーン」(阿久悠作詞、三木たかし作曲)。私は毒親のもとで育ちましたが、幼い頃、家に『昭和歌謡全集』的なBOXを置いておいてくれたことには感謝しています。歌声、演奏ともに良質な作品をたくさん聴けたし、少ない言葉数で多くのことを表現する“職業作家による歌詞”をたっぷり学ぶことが出来ました。これは、本を読むのとはまた違う意味で、「言葉の勉強」「表記の勉強」「表現の勉強」「行間を読む勉強」に大変役立った。

で。「シルエット・ロマンス」が、単純なラブソングではなく不倫の歌だということも、「ラスト・シーン」1コーラス目の歌詞、“一緒に歩けずごめんなさい”の深い意味…そこに込められた悲しみや申し訳なさ、後ろめたさが分かったのも、30代に入ってからでした。ある日、突如として「これってそういう意味だったのか!」と気付いた時の衝撃といったら凄かったなぁ。「あんなに何度も聴いたのに、私は何も分かっていなかった。ちゃんと読み取れていなかった」というショックと驚き、「昔気付けなかった本当の意味に、今は気付けるようになったんだ」という嬉しさと喜び。そして、「これからも味わいたい。こういう経験をいっぱいしたい」と強く思いました。そうそう、幾つかの歌や小説内で見たことがある表現…“ベッドの上で魚になる”の意味を理解したのも、20代半ばを過ぎてからでした。「比喩なのに、直接表現するよりず〜っと官能的。スゴイなぁ」と感動したことを覚えています。

 

大人になるって、年を重ねるって、なかなかに面白いですよね。自分が女風ユーザーになるなんて予想もしていなかったけれど(笑)、それも含めて、色々な経験を積み重ねることは素敵だし面白いなと思います。知らない世界の扉、今後もまだまだ開いていけますように♪