女風は、用法・用量を守って正しく利用いたしましょう。

既婚ユーザー・ネギブロコの女性用風俗利用日記+日常譚

喉元過ぎても熱さを忘れず

朝、電車に乗っていた時のこと。私の左隣に、中東の方っぽい男性2人組が座りました。彼らの会話は半分くらいが英語で、残りはアラビア語(多分)と、時折日本語が単語で挟まる感じ。「ベップ」や「オンセン」は「今度行くんだろうな~」という想像がつくけれど、「ゼイキン」「ネンキン」「ホケン」とかは、「結構切実なお話なのかしら…?」と興味が沸き、うっすら聞き耳を立ててみたりみなかったり(笑)。

 

しばらくすると、2人は固い握手を交わし、片方の男性が降車。3駅分走行した後、突如「ビーーーーーーーッ!!!」という音が大音量で鳴り響き、電車が全く動かない事態に。「ホームで緊急停止ボタンが押された」そうで、「安全確認が取れ次第の発車となります」とアナウンスされています。私は時間に余裕があったし、「あぁそうですか」と思いのんびり待っていたのですが、隣の殿方はかなりキョロキョロして焦っている様子。「良いスーツ着てるし、これから商談とかなのかな。だとしたら遅刻は避けたいところだよねぇ」などと妄想していると、当の本人が話し掛けてきました(*英語でしたが意訳します)。

 

「すみません、これ何の音ですか?」

「緊急停止ボタンが押されただけです。特に心配ないと思いますよ」

「それなら良かったです。何か事件が起きたのかと…」

「大丈夫、大丈夫。多分、少し待てば動き出しますから」

「そうですか。日本語が分からないので、アナウンスの内容が理解できず不安でした。教えてくれてありがとう」

 

そうか、そりゃそうだよな~と思いました。私だって、異国で警告音が鳴り、その説明が全然聞き取れなかったら怖いし不安になる。幸い、海外でそういう目に遭ったことはないけれど、それは単にラッキーだっただけで、「今後もない」という保証はどこにもありません。

 

 

遡ること、12年前。3月11日の14時46分──。皆さんは、どこで何をされていたでしょうか。


私はと言いますと、当時エンタメ系雑誌の記者だったため、地下鉄で取材先へ向かっている最中でした。インタビューは15時スタート、目的駅には14時50分着予定。いくら駅近のレコード会社とはいえ、「かなりギリギリだな」と少し慌てていたように思います。立ったまま鞄の中をまさぐり、ICレコーダーを探していたら、体…というか、脳天から“ぐわん”と全身を、それはもう尋常ならざる力で揺さぶられた。

「これはおかしい、絶対変だ」と思っているうちに、乗っている車両がゆっくりゆっくり、けれども確実に、信じられないほど大きく左右に揺れ始めたのです。その揺れがどんどんダイナミックさを増して、みんな立っていられなくなって、車体が横転していないことが不思議なくらいだった。“新種の生命体”の如く、車両が意志を持って動いているんじゃないか?と錯覚しそうになるほど、それまでの人生で見たことのない動き方をしていました。

揺れが収まっても、何が起きているのか、これが現実なのか夢なのかがよく分からない。とりあえず、床から膝を離して立ち上がると、数メートル先にいた女子高生が大きな叫び声をあげました。閉所恐怖症とかなのかもしれないけれど、両手で頭を抱え、堰を切ったように激しく泣き叫んでいます。その声につられたのか、車両全体が段々パニック気味に。私はあまりの現実感のなさに、「映画みたいだなぁ。っていうか、今停まってるとこ、ホームじゃなくて駅と駅の間だよね? 私たちって外出れるのかな…? ここで死ぬとしても、生き埋めとかは嫌だなぁ…」と至極冷静に考えていました。

その時です。車掌さんが、やや低めの声で、且つゆっくり落ち着いた口調でアナウンスしてくれました。

「乗客の皆さまにお伝え致します。まずは落ち着いてください。現在、状況を確認している最中ですので、このまま少々お待ちください。地下鉄車内は安全です。どうか慌てずにお待ちください」

 

私はもともと声フェチですが、この時の車掌さんの“素敵な声”は、いろんなことをひっくるめて一生忘れないと思います。

例えるなら、NHKアナウンサーのように落ち着いた感じで、冷静に、滑舌よく、いい意味で“感情を極力排除した喋り方”に聞こえました。恐らく、乗客が取り乱さないよう、敢えてそういう口調を選択したんでしょうね。もし、車掌さん自身も慌てふためいた感じで「落ち着いてくださいっ‼︎ 大丈夫です!」などとアナウンスしようものならそれこそ不安を煽るだけですから、ホームに着いてドアが開くまでの間、ずーっと冷静に、淡々と事実を伝え続けてくれたあの車掌さんには心から感謝しています。私が言うのもおこがましいけれど、終始凛とした、見事な対応でした。

 

そして。ドアが開き、長い長い階段を上って地上へ出ると、「映画みたいだなぁ」再び。道にはバイクやら看板やらが倒れ、建物が傾いて窓ガラスが飛び散り、路上には人々が溢れている。青山という場所柄だと思うのですが、“人々”の中に外国人が占める割合が非常に高く、彼らのパニックぶりたるや本当に凄まじかった。

我々日本人は、幼い頃から防災訓練を受けているし、「地震や災害は共存しなければいけない相手」だと分かって暮らしています。でも、大抵の外国人はそうじゃない。日本人は、未曾有の大地震に見舞われた直後であれ、「周りの人たちとどう協力し合ったらいいか」「どう動くのが最善か」を考えて行動できる。顕著だったのが、歩道での立ち振る舞いです。

私が地上へ出た頃には、歩道は既に人でいっぱい。どこを見渡しても、行列が大移動しているような感じでした。そんな中でも、日本人は自然と“北へ向かう人は右側通行、南へ向かう人は左側通行”のように、お互いぶつからないよう工夫して歩いていた。私もそれが当然だと思っていました。なれど、多くの外国人にはそういう意識がないらしく、“暗黙のルール”を無視して逆走し、バンバン人にぶつかりながら歩いたり、全力で逃げ惑ったりしているのです。そんなの誰も得しないし、「いやいや周りをご覧なさいよ」と思いましたが、“地震そのもの”に耐性がなくてめちゃくちゃパニクっているから、冷静な判断を求めるのは酷な気がしないでもありません。この時、「日頃の訓練とか備えとかって本当に大事だな。いざって時にこうも差が出るんだから…」と感じました。

 

その後、青山から会社がある神保町まで約2時間歩き続け、その日は編集部に泊まり、翌朝ニュースで東北の惨状を知りました。私が担当している歌手・俳優の中にも東北出身の方が何名かいらしたので、「彼らの実家や友人は…?」と心配になったし、とにかく電話がつながらないから、自分の友達や仕事関係者の安否も分からない。命が助かってありがたい気持ちはもちろんあったけれど、建物の倒壊や津波の映像を繰り返し見るのがどうにも辛くて、途中からテレビを消してラジオに切り替えたと記憶しています。“生かされていること”に感謝するとともに、報道のあり方について、深く考える日々でもありました。

 

干支がひと回りして、今度はコロナウイルスが出現。コロナに罹患して命を落とす人も、“コロナから受ける様々な影響”で命を落とす人もいました。今月13日からはマスクを着けるか否かも個人の判断となり、最近はお花見シーズンだからか、外でお酒を飲む人を結構見かけます。『喉元過ぎれば熱さを忘れる』とはよく言ったものです。お酒を飲むなとは言わないけれど、「そこまで酔っ払うなら、いろいろ撒き散らすなら、外じゃなく家でやってくれよ」と心底思う。

“忘却する能力”というのは、時にとても大事です。忘れることでしか、前に進めない時だって沢山ありますから。ただ、“忘れてはいけないこと”というのも当然ある。個人的には、コロナ前と同じような世の中になるとは思っていないし、それを望んでもいません。働き方や意識の変化、家での楽しみ方等を「まるで無かったもの」のようにしてしまうのは、すごくすごく勿体無いと思う。私自身は、この3年で学んだことや得た教訓を活かしながら、これからの人生を生きていきたいなと思っています。