時刻は午後7時半、場所は最寄り駅から3分ほど歩いた飲み屋街。私はお酒の匂いや酔っ払いと極力かかわらずに生きていきたいので、普段は避ける場所なのですが、その日は飲み屋街を抜けた先のスーパーに用事があり、やむなく利用。電車を降りてスーパーへと歩いていたら、狭い歩道の前方で、女性がこちらに向かって何かを言っています。「友達を呼んでるのかな?」と振り返って確認したけれど誰もおらず、どうやら私に話しかけている模様。イヤホンを外しつつ近付きますれば…うわぁ、呂律が全然回っていないじゃないか。
〈ひょっとして、クスリやってる系のヒト…? いや、右手に缶チューハイ持ってるから単なる酔っ払いか。んも〜ぅ、だからこの辺通るの嫌なんだよう(泣)〉 ←心の声
近くで見たら、顔は赤いし千鳥足だしチューハイはロング缶のストロングだしで、完全なる酔っ払い。なれど私は、電車降車後に眼鏡を外してしまったため、至近距離で見るまでそうとは分かりませんでした(*裸眼だと視力は0.1以下)。分かっていればイヤホンをしたままスルーしたのですが、既に立ち止まってしまった上、彼女に腕を掴まれてしまっている…。
〈こうなっては仕方ない。2〜3分相手した後、上手くいなしてぬるっと逃げよう〉
足元がだいぶフラついているから、転んで怪我でもされたら今以上に面倒くさくなる。ゆえにとりあえず座らせたほうがいいだろうと思い、目の前のベンチに促すも、「お姉さんとお話しがしたいんです。引き留めるのは申し訳ないから、歩きながらお話し聞いてくれませんか」的なことを、回っていない呂律で伝えてきます。一応言葉は丁寧だし、迷惑をかけるにしても最小限にとどめたいという気持ちはある様子なので、そこまで悪い人ではないのでしょう。少し先に別のベンチがあることを知っていたため、彼女の要望通り、歩きながら話を聞きます。
事実か否かは別として、本人より得た情報をまとめます。現在28歳、最寄りは隣の駅。今日はうまくいかないことがあって、辛くて一人で飲んでいた。出身は沖縄だが、神奈川に父と弟がいる。鞄の中には愛着障害に関する本、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に関する本が一冊ずつ。
二冊の本のタイトルと、“お母さん”の話題が一切出てこないことから、「恐らく家族間の問題を抱えているのだろう」と予想。母親と何らかのトラブルがあったのか、それとも母親がどこかへ消えてしまったのか──。「母親に優しくしてもらった経験がないから、年上の女性に話を聞いてほしい…とかなのかなぁ」などと想像しつつ、彼女の体を支えながら歩きます。
それにしても、ベンチに辿り着くまでの数分間、彼女の情緒不安定っぷりたるやすごかった。人懐っこく笑ったと思ったら、次の瞬間には大粒の涙を流し、突然立ち止まって「頑張ってもうまくいかない。なんで?」と大声で叫んだりする。ベンチに着いたら着いたで、初対面の大人同士としてはありえない距離感…つまり、ぴたりと横にくっついて座ります。それはまるで、子供が大人に甘えるような接し方。
さて。愛着障害については、前職(校正者)で概要を知る必要があった際、一度詳しく調べた経験がございます。そのため多少の知識は持っていましたが、いい機会なので、あらためてここで確認をば。
◎愛着障害とは
乳幼児期に、養育者(母親・父親等)との愛着形成がうまくいかず、問題を抱えている状態。主な原因は、虐待やネグレクト、養育者との離別など。症状としては、対人関係において不安定で依存的だったり、自己肯定感が低かったりすることが多い。医学的には子供が対象とされているものの、成長しても“大人の愛着障害”として症状が続くことがある。大人の愛着障害は、アルコール・薬物・ギャンブル等の依存症ほか、うつ病や不安障害、境界性パーソナリティ障害等、別の疾患を発症する要因となるケースもみられる。
なお、愛着障害は大きく二つに分けられる。一つは「反応性愛着障害」(主な特徴/他人を過剰に警戒してしまい、なかなか頼ることができない)、一つは「脱却制型愛着障害」(主な特徴/過度に馴れ馴れしく接してしまい、誰にでもべったり甘える)。後者の場合、ADHD(注意欠如多動症)の症状とよく似ており、診断には注意が必要。
彼女が「脱却制型」のほうに当てはまるであろうことは予想できたのですが、対応策といいますか、どう接するのが望ましいのかまでは知りません。したがって、“自分なりの最善”を尽くす以外にない…。大急ぎで脳内会議を実施し、合計4案を絞り出しました。
①「家族の誰かに連絡して迎えに来てもらったら?」と提案する
→彼女はその“家族”との問題を抱えているわけだから、家族を頼るのは難しい。却下。
②駅へ連れていって帰宅を促す
→これほどの千鳥足では、ホームから転落してしまう可能性がある。却下。
③私が彼女の家まで送っていく
→自宅まで行くのは明らかに踏み込みすぎだし、何より身の危険を感じる。却下。
④もう少しだけ話を聞いて、彼女の情緒が安定したところで退散する
→思い付いた中ではベスト。よって④を採用。
そうと決まれば即行動です。当初の予定よりも足を延ばし、ある程度人通りがあって、近くに警備員さんが常駐しているビルがあるベンチを目指します。ここなら万一彼女が暴れて手をつけられなくなったとしても、すぐに誰かに助けを求められる。「見知らぬ土地じゃなく、住み慣れた場所で本当に助かった」と心から思いました。
15分ほど話をしていたら、だんだん落ち着いてきたのか、情緒が安定してきた彼女。頃合いを見計らって、そ〜っと切り出します。
「実は私、約束があるんだ。そろそろ帰らなくちゃ」
「約束? 誰と?」
「旦那さん。とっくにお腹空いてる時間だから、ごはん作ってあげないと」
「そっか、ごはん…」
「うん。あなたにはこれ、飴ちゃんあげる」
「飴ちゃん! いいの? 私に?」
「うん、いいよ。どれがいい? りんごと桃とみかん」
「りんごっ‼︎」
「はい、りんご」
「やったぁ♪」
一粒の飴玉を両手で大事そうに受け取り、屈託なく笑う姿や仕草は、本当に子供のよう。満足したのか、「もっと話したい」等の無茶を言うこともなく素直に解放してくれる彼女。でも、数メートル歩いたところで大声が聞こえてきました。
「こんな世の中でも、いいことありますように〜っ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
びっくりして振り向くと、左手を限界まで上に伸ばし、千切れんばかりにブンブン振っています。そしてもう一度、「いいことありますように〜っ!」と叫びました。私に言っているのか、それとも自分自身に言っているのか不明でしたが、彼女は“こんな世の中”にあっても絶望しているわけじゃないというか、辛いことはあれど、まだ希望を捨てていないんだな、何とか頑張って生きていこうとしてるんだなと感じてホッとしました。
多分、当事者にしか分からない苦労だったり悩みだったりが沢山あって、きっと毎日大変なんだと思うけれど、この先あなたが平穏無事に暮らしていけることを、陰ながら祈っています。ただ、あんなお酒の飲み方はもうやめたほうがいいです。女の子なんだし、いろいろな意味で危ないです。
◇追記◇
「近所だから」と油断して、眼鏡を外してウロウロしたことを深く反省。「人生、どこで何があるか分からないな」と実感しましたゆえ、慣れた場所であっても裸眼で歩くことは控えようと決意致しました。今回はたまたま大丈夫でしたが、運悪く相手が薬物中毒者や通り魔だったら、命が幾つあっても足りないですからね…。用心、用心。