ドラマ「燕は戻ってこない」(NHK)が2日、最終回を迎えました。以下に結末を記しますので、これから視聴される方はご注意くださいませ。
↓↓↓以下、ネタバレあり↓↓↓
主人公・大石理紀(石橋静河さん)は、代理母として妊娠し、双子の赤ちゃん(男児と女児)を出産。依頼主である草桶基・悠子(稲垣吾郎さん、内田有紀さん)夫妻とは、すったもんだの末「最初の2ヶ月間は大石さんのもとで育ててもらう。その後引き取り、私たち夫婦の子供として育てる」ことで合意していたものの、理紀は引き渡しの日を待たずして、双子の片方だけを攫い、赤ちゃんとともに行方をくらませてしまう──。
下記は、そのシーンの詳しい描写です。
ベビーベッドに、2人並んで寝かされている双子。その双子たちを、何とも言えない表情で見つめる理紀。草桶夫妻によって、男児は悠人(ゆうじん)、女児は愛磨(えま)と名付けられたが、理紀は仮の名前として、妊娠中から男児を「ぐり」、女児を「ぐら」と呼んでいた。
理紀は何かを決意したように、或いは悟ったように、双子を見つめながら呟く。
「あんたたち、ほんとにすごいね。もうこの世界で生きてるんだ。それぞれが、ひとりの人間なんだ」
〔理紀のモノローグ〕
私は決して、機械にはなれない。
心が叫んでる。
踏みにじられるな。奪われるな。
人並みになりたいんじゃない。
私は、私でありたい。
男児をベッドから抱き上げ、自分の額と彼の額をくっつけて「ぐり。あんたは、草桶のおうちで可愛がられるから大丈夫。バレエダンサーになったら観に行くからね。元気でね」と微笑みかけ、ベッドへ戻す。
一方の女児。ベッドから抱き上げるところまでは同じ。「あんたは、ママと一緒に行こうね。草桶愛磨じゃなくて、大石ぐらになるんだよ。それでもいい? 女同士、一緒に生きよう。クソみたいな世の中だけど、それでも女はいいよ。女のほうが絶対にいい」
女児はベッドには戻されない。そのまま抱っこひもでかかえられ、居候先の友人宅(裕福で、何不自由ない暮らしをさせてくれる環境)から理紀とともに旅立つ…いや、旅立たされる。
〔理紀のモノローグ〕
さぁ、どこに行こうか。試しに、沖縄とか行ってみる? それとも、ママの生まれた北海道にする? 私たち、誰にも縛られない。どこにでも行けるんだよ。
原作既読のためストーリーは把握していたけれど、映像で見ると余計に腹が立つというか、さらなる憤りを覚えました。具体的には、こんな感じです。
「あなたに『ママ』を名乗る資格があるとでも?」
「『それぞれがひとりの人間』だと言うなら、どうして最大限彼らを尊重しないのか? なぜ自分のエゴやその場の感情で、突発的に行動するのか?」
「踏みにじられているのは、奪われているのは、あなたじゃない。ほかでもない、あなたが産み落とした子供たちのほうだ」
「『あんたは草桶愛磨じゃなく大石ぐらになる。それでもいい?』って、生後2ヶ月の赤ちゃんにする質問じゃないでしょう。仮に『嫌だ』と思っていても、答えられないと知っているのに勝手すぎる」
「どの口で『女のほうが絶対にいい』と言っているのか。これまで散々“女であること”を憂いてきたくせに」
「あなたがどこへ行こうと結構、好きにしたらいい。でも、子供を“不幸の道連れ”にするのは違うと思う。代理出産した上、一緒に生まれた双子をわざわざ引き離すなんて…。『2人が成長して、いつか真実を知った時、どう感じるだろうか。ひどく苦しむことになりはしない…?』。どうしてそういうことを考えないのか? 想像力というものが欠落しているのか?」
この作品に出てくる登場人物たちは、正直言ってどの人もあまり好きではありません。それぞれ“嫌悪を感じる部分”は幾つもあるけれど、全員に共通しているのは、誰一人、双子の気持ちや行く末を、全くと言っていいほど案じていないところです。
「自分の遺伝子を継ぐ子供が欲しい」
「代理母に産んでもらった“我が子”を、自分の手で育てたい」
「私は私でありたい」
揃いも揃って、み~んな自分のことばっかり。もちろん、己を大切にするのは人間としてごく自然で当たり前だと思いますが、そのために“子供を犠牲にするのも厭わない”というのは、やっぱり違うんじゃないかなぁ。
現状、理紀の未来には“貧困まっしぐら”の道が待っているようにしか思えません。手に職があるわけでも、有り余る資産があるわけでもないのに、自信を持って「私たちは誰にも縛られない。どこにでも行ける」と言い切れてしまう神経が全然理解できない。それって、愛磨ちゃんにとって幸せなんでしょうか。置いていかれた悠人くんも悠人くんで、将来「僕だけが実の母親に捨てられた」と感じてしまうかもしれません(「貧しい実母に攫われず、裕福な草桶家に残されたのは不幸中の幸いだった」と捉える可能性もありますが)。一番最悪なケースとしては、何も知らないまま2人が出会い、互いに異性として意識してしまう日が訪れること。これだって、可能性は低いけれども決してゼロではない。想像するだけで恐ろしい…いえ、おぞましいです。大人の都合や身勝手で犠牲になるのは、いつだって子供。子供は大人に頼るしか術がないのに、大人もそれを分かっているのに。
この小説は読後感が非常に悪かったというか、とにかく不快だったのですが、ドラマ視聴後もほぼ同じ気持ちになりました。登場人物の誰にも感情移入できないし、したいとも思わなかった。なれど、代理出産について、かなり深いところまで考えるきっかけをくれたことには感謝しています。
本のいいところは、読む前はそこまで興味を抱いていなかったテーマであっても、一度世界観に引きずり込まれてしまえば、そのテーマを取り巻く問題や現実に、正面から向き合わざるを得ない点です。自分なりに調べた上で、“その立場”に置かれている人のことを至極具体的に想像する。そうすると、「自分には関係ない」という考えが無くならないまでも、どんどん薄くなっていく気がするんですよね。そういう意味でも、本は世界を広げてくれるアイテムとして大変手軽でありがたいなぁと、今回あらためて思いました。
ところで。「生まれ変わるなら男がいいか、女がいいか」みたいな話題、よく出ませんか? 私は昔から「どっちでもいい」一択です。現状、女性で損したなぁと思うのは、「生理があること」「夫婦別姓が選択できないことによる、ほぼ強制的な苗字変更」の2点くらい。近年は“女性の生きづらさ”をテーマにした作品が目立つけれど、個人的には「男性であれ女性であれ、生きづらさは誰にでもあるだろうな」と感じています。
例えば。男性は男性だというだけで、「生涯仕事を続けるものだ」と決めつけられたり、「ある程度の体力があるはず」と期待されたりしますよね。実際、女性が肩書きとして専業主婦を名乗っても特に何も言われないけれど、男性が「専業主夫です」と言うと一瞬ざわついたり、変な空気になったりする。平日の昼間、公園にいるだけで不審者扱いされたりとかもあるでしょう。
我が夫は驚くほど体力がなく、一緒に出掛けると短時間で疲れてしまい、度々「お茶しよう」「座りたい」と言ってきます。独身時代はスポーツマンの彼氏が多かったこともあり、付き合い始めの頃は「こんなに疲れやすい男の人もいるんだ」とびっくりしました。と同時に、「男だから、女の私よりも体力がある」と思い込んでいた自分に気付いて反省。虚弱体質だったり、長時間歩くのが苦手だったりって、性別問わずあるはずなのに、いつの間にか固定観念にとらわれていた。
あとは、バイトやパートの募集要項も「主婦歓迎」は数多く見ますが、「主夫歓迎」はまだまだ少ない印象です。主夫に限らず、そういう働き方を望む男性だって沢山いるでしょうに、現実はなかなか難しいんだろうなぁ…。かつてアラサーだった頃、少し年下の男友達に「◯◯さん(←私の名前)ってバリキャリ志向だよね? 俺、実は主夫になりたいんだ~。家事全般得意だし、外で働くのそこまで好きじゃないし。今彼氏いないんだったら、俺と結婚するっていうの選択肢に入んない? あ、子供は作っても作んなくてもオッケーだよ。普通に友達として相性いいわけだから、『全然ナシ!』ってことないと思うんだけど、どうかな?」と予想外の提案をされてひっくり返りそうになったけれど(笑)、アラフォーとなった現在は「確かに、“完全にナシ”ではないよな〜」と感じています。
現代の働き方…というよりライフスタイルの選択肢は、男性より女性のほうが多いような気がしますもんね。男性だと、①サラリーマンとして勤め上げる、②家業を継ぐ、③起業する、あたりが王道だけれど、女性はもっとたくさんある。したがって、「専業主夫になりたい」「定年まで働くのは避けたい」と考えている男性にとっては、結構息苦しい世の中なのかもしれません。まぁ、“見えざるプレッシャー”と戦っているのは男性だけじゃないから、女性でも男性でも結局似たようなものというか、大して変わりはないんでしょうけども。
私は自分が“女性であること”を、嬉しいとも悲しいともラッキーとも残念とも思っていません。女性以外の性を体験したことがないので、比較しようがないですし(笑)。ただ、この国全体の生きづらさは年々増しているように感じます。それでもなお、「子供が欲しい」だったり「養子を迎えよう」だったり、そういう決断ができる方々のことを心から尊敬しています。代理母には絶対反対だけれど、毎日必死に子育てしているお父さん・お母さんのことは出来る限り応援したい。妹家族、親友家族、義兄家族、そして見知らぬご家族の子供たちが困っていて、且つ助けを必要としていたら、いつでも喜んで手を差し伸べます。愛磨ちゃんや悠人くんのような境遇でなくとも、“親以外の大人”の助けが要るケースって、案外あったりしますからね。その時は、全力で協力したいと思っています。
私は「自分の子供が欲しい」と願ったことは一度もないけれど、子供そのものは割と好きだし、「かかわりたくない」と思っているわけでもありません。昔から「子供を望んでいない」と伝えると、「つまりは子供嫌いって意味?」と勘違いされることが多々あったのですが、「“欲しくない=嫌い”ってわけじゃない」という点を、こと子供に関しては本当に理解してもらいづらい。
「あくまで、ものの例えとして聞いてね。怒らないでね。私は犬が大好きだけど、(当時の)仕事柄不規則だし家を空けることも多いから、継続的にちゃんとお世話するのが難しい。だから『欲しい』なんて思わないし、飼うことは100%ない。それと同じで、子供自体は好きだけど、自分の子は欲しくないわけ。でも、人ん家の犬でも人ん家の子供でも、困ってる場面に出くわしたら手を貸すよ。それって、根っこはおんなじことだと思うんだよね」
そう説明して、「あぁ、なるほど」「伝えたいことは分かった」的な返事をしてくれるのはごく少数で、怪訝な顔をするか、もしくは「ペットと子供を一緒にしないで!」と怒り出すか、その二種が多かったです、経験上は。「だから『怒らないで』って最初に言ったじゃーん…」と思いつつ、怒っている人に対してはそれ以上反論せず、別の話題を提供して乗り切ることにしています。どこまで行っても平行線の話題を続けるのは、お互い疲れるだけなのでね…(笑)。