女風は、用法・用量を守って正しく利用いたしましょう。

既婚ユーザー・ネギブロコの女性用風俗利用日記+日常譚

視点の違い

本日、夫と2人で映画を観に行ってきました。

シネコン到着後、まずはネット予約しておいたチケットを受け取るべく、自動発券機へ。土曜日だからか混雑していて、10台以上ある発券機はどこも数組並んでおり列が出来ています。何気なくその列を眺めていたところ、一人のご婦人と目が合いました。キョロキョロと視線を動かし、映画館のスタッフさんを探している様子です。

以前にも綴った通り、私は駅やら路上やらでなぜかロックオンされてよく道を訊かれるのですが、こういう場所でもそれは同じ。明らかにスタッフではないにもかかわらず、「あの…すみません」と助けを求められてしまう率がめちゃくちゃ高い(笑)。御多分に洩れず声を掛けられ、「チケットの買い方が分からないので、すみませんが教えてもらえませんか」と頼まれました。


「全然いいですよ〜。どの作品の、何時の回が観たいですか?」

「『◯◯◯◯◯』っていう邦題で…」

「ええと…1ページ目にはそのタイトルないみたいなので、スクロールして次のページに行きましょう」

「すくろーる?」

「右側のここを触ると、どんどん下に進むので…」

「あぁ、そうやると画面が変わる仕組みなんですねぇ」

「はい。あ、ありましたよ。字幕と吹き替えどっちにしますか? あとIMAX版もありますけど」

「あいまっくすばん…。何だかいろいろよく分からないわねぇ。こういうの、若い人には簡単でも年寄りには難しくって」

「詳しい説明書きもないから、初めてだと難しく感じるかもですね。でも、一度覚えちゃえば案外そうでもないですよ」

「私、次来る時までちゃんと覚えてられるかしら(笑)。あら、チケットが出てきた♪ 親切なお嬢さん、どうもありがとう。とっても助かりました」


シニア世代の女性から見ると、アラフォーの私は「若い人」であり「お嬢さん」の部類に入るのか〜と思いつつ、自分たちのチケットを発券。無事、約2時間の映画を満喫したのでありました。

 

 

シネコンを出て少し歩き、和食屋さんで遅めのランチ。タッチパネルで注文を済ませ、あとは頼んだメニューが運ばれてくるのを待つだけです。

「君って本当に話し掛けられやすいよね。さっきだって、あんなにたくさん人がいるのにピンポイントで『教えて』って言われてた(笑)」

「ねー(笑)。まぁ慣れてるし、教えるぐらい何でもないんだけどさ。でも、確かに難しい…ってか分かりづらい部分はあるよね。“誰しも使えるもの”っていう前提で設置してあるけど、初めての人には不親切かもしれないなぁ」

「いつもは案内係のスタッフさんいるのに、今日誰もいなかったから特にね」

「そうそう! 有人レジも空だったよね。あれじゃ有人って謳ってる意味ない(笑)。あのご帰人も、『有人レジ行ったけど誰もいなくて困った、どうしよう…』って感じだったのかもね。ああいう施設の場合、例えばスタッフさんが不在の時は、大きい字で使い方の説明書いたボード置いとくとか、もうちょっと工夫出来たりしないのかな。じゃないと、慣れてない人は心が折れて『あの映画館は選択肢から外す』ってなっちゃいそう」

「あり得ない話じゃないよね。けど、もしかしたら映画館側は『それでいい』って思ってるかもよ」

「えっ、どういうこと⁉︎」

「年配の人とかデジタル化についていけない人とかは切り捨てて、若年層プラス“いろんな変化に対応できる人”だけを積極的に取り込む方針かもしれないじゃない? 仮にそうだとしたら、あのご婦人には気の毒だけど、映画館側の狙いは成功してることになる」


夫のこの発言には心底驚いたし、「私の中には全くない視点と発想だ!」とある意味感心致しました。

夫は職業柄、“経営する側”の立場の方に寄り添う場面が多いです。自分でも「今、仕事モードっぽい喋り方になっちゃった(汗)」と言っていたけれど、なるほどなるほど。ユーザー側ではなく経営側に立つと、物事の見え方や捉え方はガラリと変わってくるものなのかもしれません。「ふぇー…そういう考え方もあるのかぁ」と、大変勉強になりました。

 

私と夫は正反対な面が多いのですが(*私=社交的・楽観的・夜型・ごはん派、夫=人見知り・悲観的・朝型・パン派等々)、お互い“自分にはないもの”を相手の中に見つけることが度々あり、それを「面白い」「興味深い」「助かる」と感じています。私たちは深く愛し合って夫婦になったとかではないし、夜の営みだってこの先もゼロだろうけど(笑)、「それも一つの結婚の形」と上手く割り切れれば相当楽しいものになり得る。

結婚相手が彼でなければ、女風を利用することも、このブログを開設して皆さまと触れ合うこともなかったでしょうから、「人生とは誠に愉快で、誠に不思議なものでありますな〜」とあらためて実感しております、ハイ♡

 

 

 

開設4周年

2020年2月29日に開設した当ブログ。再びの閏年…ということは、あれから丸4年の月日が経ったわけでございます。時が流れるのは本当にあっという間ですね。

女風関連でご報告致しますれば、今年に入って女風を利用したのはなんと!まだ1回だけ。昨年末の記事「コンディション調整」で綴った通り、爪の状態及び体重増加を気にしておりましたゆえ、昨夏より半年ほど利用を控えていたのです。地道な筋トレの甲斐あって、ほぼ体重が戻ったため、先日やっとお気に入りセラピストさんを指名することが出来ました。久々だったこともあり、ものすごく癒やされた&めーっちゃ気持ち良かったです♡♡♡


ところで。長らく「7〜8割がお気に入りセラピストさん、残りが新規セラピストさん」で固まっていた私の指名スタイル。ですが少し前から新規指名はしておらず、現状、お気に入りセラピストさんのみをローテーションで回す形を取っています。主な理由は3つ。

①お気に入りセラピストさんたちとの関係性が大変安定していて、全体のバランスもなかなか良い

②彼らは全員それなりにセラピスト歴が長いし、仕事・顧客に対して真面目な人が多いため、「この先も突如辞めてしまう可能性は低いだろう」と感じている

③「新規で指名したセラピストさんが、彼ら(お気に入りセラピストさんたち)のサービスだったり“私との相性の良さ”だったりを超えてくることはあまりない」と経験上知っている


私はこれまで、“女風の卒業”について考えたことはありませんでした。ですが、今いるお気に入りセラピストさんたち(←ちなみに8人くらい)が全員セラピスト業を引退したら、その時は私も一旦利用をストップしてみてもいいかもしれないなぁと、うっすら思っています。あ、最近性欲が落ちたとか、もう十分満たされたとか、そういうことでは全然ないですよ。

何というか…結婚当初この胸にうずまいていた「“夫と交わることが出来ない現実”によるどうしようもない辛さや悲しみ」はとっくに消え去り、いつの間にか“夫=人生を共にするパートナー”として完全に割り切れている自分がいたんですよね。それはもちろん、女風というありがたいサービスが存在し、優しくてエロエロな(笑)セラピストさんたちが、メンタル面とフィジカル面、その両方を癒やし続けてくれたおかげです。心から感謝しています。ただ、完全に割り切れている今、「女風なしでどこまでいけるのか」「どれくらいで耐えられなくなるのか」を試してみたい気持ちが、少~しばかり出てきてしまった。まぁ、これはあくまで“現在の気持ち”であって、実際その時が来てみないとどうなるか分からないですけども…。でも、そういう心境になれたこと自体、とっても嬉しいなぁと。結婚した2019年秋当時には、女風の利用によって、こんなにも穏やかな気持ちになれるとは想像もしていませんでした。ありがとう女風、ありがとうセラピストさんたち!


そういうわけで、女風絡みの投稿は今後、“ゼロじゃあないけどもそれほど多くはない”ことが予想されます。とはいえ、「女風の基本情報」や「リアルな体験談」としてはそこそこ充実していると思いますので、ブログタイトルは変更せず、これまで以上にゆるゆる運営していこうかしらんと考えております。つまりは、“書きたい時に書きたいことを書きたいだけ書くスタイル”で、5年目も自由気ままにやっていく予定でございます、ハイ。

もしよろしければ、引き続きお付き合いくださいませ〜♪

 

◇余談◇

出版社で月刊誌を作っていた頃は、閏年が大・大・大好きでした。この「プラス1日」があるか否かで、〆切のキツさが劇的に、そりゃもう全っ然違うからです。雑誌制作でなくとも、〆切に追われるご職業の皆さま方、いつもお疲れさまです。心中お察し致します。

そして2/29生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます! 小説家で言うと、赤川次郎さん、辻村深月さん(*辻村さんの「辻」は本来二点しんにょうですが、当ブログのスマホ版では一点しんにょうで表記されているかと思います。相済みません)が閏年生まれですね。どうぞ素敵なお誕生日となりますように♡

 

 

 

一枚岩じゃなくたって

私がかつて勤めていたのは、社員50人以下の出版社…つまり中小企業です。それくらいの規模でも、社長をはじめとする経営陣、営業部(広告営業及び書店営業)、編集部(雑誌編集及び書籍編集)他、所属部署や各々の立場等によって、見ている方向だとか優先事項だとかが随分違いました。

「会社として利益を上げる」という主目的は一応同じだけれど、経営陣は事業拡大や次世代幹部の育成、営業部は毎月の売り上げや新規クライアントの開拓、編集部は次号の企画立案や日々の取材・原稿執筆を第一に考えていたように思います。社員一人ひとりに異なる役割があり、各自それを果たそうとしているわけだから、当然といえば当然なのですが、だからこそ衝突することも多かった。特に、編集部と営業部は。


私が(2020年秋まで)所属していたのは、ざっくり言うと音楽雑誌の編集部です。インタビュー記事をメインに、特集やライブレポ、新曲レビュー等も掲載する月刊誌で、雑誌としてはかなり息の長い部類に入ります。発行部数も悪くなかったため、読者からも業界関係者からも、そこそこ信頼を得ている媒体と言えましょう。

現在の内情には詳しくないけれど、当時の編集部は、読者からの「誰々を表紙にしてください!」「誰々の海外公演をレポしてほしいです」等のリクエストや、自分(記者)達が是非やりたい企画、レコード会社・事務所からの売り込み、クライアントからのタイアップ依頼等々、実にさまざまな要素をパズルのように組み合わせつつ誌面を構成していました。部数への影響を全く考えないわけではないものの、私を含めて編集部員は“音楽バカ”ばっかり(笑)。それゆえ、基本的には「もっと売れてほしい人」だったり「パフォーマンスが魅力的な人」を掲載したいと思っていたんですよね。


でも、営業部はそうじゃありません。毎号、「既に売れている人」「部数アップが期待できる人」を表紙にせよと迫ってくる。それは戦略として正しいと思うし、彼らの「どんなに立派な記事を書いても、結果が伴わなきゃどうしようもない」という主張も理解できます。

ただし月刊誌ゆえ、表紙を飾れるのは年間たった12人(もしくは12グループ)。その限られた12回に、出来るだけ多くの歌手に登場してもらいたい、読者のリクエストになるべく応えたいと思っているのに、「いつもより部数落ちそうじゃない?」「確かにライブはスゴイけどさ〜、書店に並んだ時、彼or彼女の表紙で“引き”あるの? お客さん、手に取ってくれるかなぁ」などと嫌味ったらしく言われると、こちらも全力で反発したくなってしまいます。「原石を見出すのだって専門誌の仕事だと思うけど」「部数部数って、営業部は他に言うことないわけ?」等々。お互い大人なので、会議の場以外で言い争うことはそんなになかったけれど、「普段は仲良かったの?」と訊かれたら、やっぱりイエスとは答えられない関係性だったと思います。その証拠に、今でも連絡を取り合う元同僚の中に、営業部員は一人もいません(笑)。

 

 

中小企業でさえこんな具合ですから、約700人の社員を抱える総合出版社・小学館はこの比ではないでしょう。編集、営業、クロスメディア、ライツ、デジタル、管理…等々、部署の数からして、小さな出版社とは全然違います。


漫画家・芦原妃名子さんが亡くなられたのは1月29日。翌30日、小学館が社として公式コメントを発表したのですが、それを読んだ時、非常に冷たく、芦原さんの死に関して“まるで他人事”のような印象を受けました。下記がその全文となります。

「漫画家の芦原妃名子先生が、逝去されました。

『砂時計』で第50回、『Piece』で第58回小学館漫画賞を受賞され、2017年からは7年にわたり『姉系プチコミック』で『セクシー田中さん』をご執筆いただいておりました。

先生の生前の多大なご功績に敬意と感謝を表し、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。先生が遺された素晴らしい作品の数々が、これからも多くの皆様に読み続けられることを心から願っております」

 

そして2月6日、同社が社内向け説明会にて、「この件に関しての社外発表はない」という方針を打ち出したことが明らかに。それを受けてか、同8日、現場の編集者たちが「第一コミック局 編集者一同」として声明を発表しました(*第一コミック局は、「姉系プチコミック」を制作している部署です)。長文なので、一部抜粋して掲載致します。

「本メッセージは、我々現場の編集者が書いているものです。

私たちが語るまでもないことですが、『著作権』と呼ばれる権利には、『著作財産権』と『著作者人格権』というものがあります。今回、その当然守られてしかるべき原作者の権利を主張された芦原先生が非業の死を遂げられました。守られるべき権利を守りたいと声を上げることに、勇気が必要な状況であってはならない。私たち編集者がついていながら、このようなことを感じさせたことが悔やまれてなりません。

二度と原作者がこのような思いをしないためにも、『著作者人格権』という著者が持つ絶対的な権利について周知徹底し、著者の意向は必ず尊重され、意見を言うことは当然のことであるという認識を拡げることこそが、再発防止において核となる部分だと考えています。

本メッセージを書くにあたり、『これは誰かを傷つける結果にならないか』『今の私たちの立場で発信してはいけない言葉なのではないか』『私たちの気持ち表明にならぬよう』『感情的にならぬよう』『冷静な文章を……』と皆で熟慮を重ねて参りました。

それでもどうしてもどうしても、私たちにも寂しいと言わせてください。寂しいです、先生」


漫画家にとって担当編集は、二人三脚でその厳しく険しい道を共に歩む、いわば相棒のような存在ですから、きちんと漫画家に寄り添ってくれる編集さんがおられるようで多少は安堵しました。けれど、声明全体から伝わってくるのは、“大変よく練られた文章”だということ、そして“肝心なことは何も書かれていない”ということ(*上記は抜粋ですので、全文を読みたい方は小学館HPにてご確認をお願いします)。一体どういう経緯で、芦原さんの人生が、尊い命が奪われてしまったのか──。まだ調査中とはいえ、その点について一切言及されておらず、事実は何も浮かび上がってきません。日本テレビ側のコメントにも、それに該当するものは見当たりませんでした。

 

なお、小学館は社として2度目となるコメントを、第一コミック局と同じ8日に発表しています。こちらも一部抜粋致します。

「『セクシー田中さん』の映像化については、芦原先生のご要望を担当グループがドラマ制作サイドに、誠実、忠実に伝え、制作されました。しかしながら、今回のような事態となったことは痛恨の極みです。二度とこうした悲劇を繰り返さないために、現在、調査を進めており、今後、再発防止に努めて参ります」

“弊社に落ち度はない、したがって責任もない”とでも言いたげな文章ですね…。より一層失望しました。


企業というのは、理想論だけで経営していけるものでは決してありません。そんなことは分かっています。でも、小学館日本テレビもエンタメを扱う企業です。“誰かの死の上に成り立つエンタメ”なんて、誰も楽しめるはずがない。上層部の中にも、心と良識のある人はいるだろうし、現場の中にも、売り上げ第一主義者や、クリエイターを大事にせず、“使い捨て感覚”で接する人もいると思います。実に様々な人がいます。でも、テレビマンや編集者である前に、みんな一人の人間でしょう? これを機に、本気でやり方を変えようとしないなんておかしいというか、人間としての何かが欠落しているんじゃないかとすら思ってしまう。なぜ平気でいられるのか、理解に苦しみます。


最後になりましたが、私はいち漫画ファンとして、誰かを糾弾したいわけでも、責め立てたいわけでもありません。ただ、クリエイターをもっと大切にしてほしいと願っているし、今のシステムや意識を改善してほしいし、何より悲劇を繰り返してほしくない。そのためには、原因の究明が不可欠だと考えています。何がどうしてこうなったのか、防ぐにはどうしたらいいのか、どこをどのように変えればいいのか。それを真摯に話し合い、規定を定め、公にし、その規定を遵守してもらいたいです。もし実現不能と言うのなら、今後一切、原作ものには関わらないでほしい。漫画家自身が映像化を望むなら話は違ってくるのかもしれないけれど、そうじゃないなら実写化なんてしなくていいです。これ以上、クリエイターの心身を疲弊させないでほしい。いろんなものを、彼らから搾取しないでほしい。


私はこれから先も、“漫画のある世界”の住人でいたいです。音楽のない世界と同じくらい、漫画のない世界なんて本当に本当に嫌だ。救いも癒やしも興奮も感動も教訓も、数えきれないほど多くのものを、漫画から与えてもらって&受け取って、今日まで生きてきました。大好きな漫画家さんたちの作品が読めなくなる未来なんて、想像しただけでも絶望感と喪失感がものすごい。そんな未来は訪れてほしくないです、絶対に。

 

 

 

 

“コア”の見極め

 

2022年冬にシーズン1が放送されたドラマ「作りたい女と食べたい女」(*原作=ゆざきさかおみ氏の同名漫画)。そのシーズン2が、先月末よりスタートしました。

シーズン1は全10回だったけれど、シーズン2は全20回。月曜~木曜の22:45~23:00、NHKにて放送中です。なお、話数の数え方としては「シーズン1からのつづき」という位置付け。今日現在(2/11)、第18話まで放送済みだけれど、残りは2話じゃなく12話なので、まだ半分以上残っています。興味のある方は、今からでもご覧になってみてください。


さて。基本的には楽しく観ている同ドラマですが、直近2回は結構しんどかったですねぇ。というのも、主人公の一人・春日さんの父親像が、私の父とそっくりだったから。

春日さんは、両親、自分、弟の4人家族。食べることが大好きなのに、“女だから”という理由で弟よりおかずの量が少なかったり、食後、父親と弟がソファーでくつろぐ中、母親と春日さんは食器の片付けに忙しかったりと、ずっと嫌な思いをして育ってきました。そのため、故郷を出て約10年、実家には帰っていないし、父親からの着信もスルーしている状態です。

何度か書いている通り、私の父も毒親です。男尊女卑で、モラハラで、態度も喋り方も常に偉そう。今こうして思い出すだけでも気分が悪い。そのせいか、春日さんが父親に電話で怒鳴られたり罵られたりするシーンは、ドラマと分かっていてもキツかったですね…。高圧的な物言いや、自己中心的な考え方が自分の父親とモ口に重なってしまい、強い嫌悪感を覚えて吐き気がしました。


あ、ドラマの内容に戻りますね。

ここ最近、春日さんへの連絡が頻繁になった理由──。それは、春日さんのおばあちゃん、つまり父親にとっての“お母さん”に、介護が必要になったから。「だからこっちに帰ってきて介護を手伝え」というのです。「どうせ大した仕事じゃないだろう、辞めて帰ってこい」と。


実父の酷い発言を受け、春日さんの中で燻り続けていた怒りや疑問が、一気に爆発したのかもしれません。彼女は極めて冷静に、けれどもはっきりとした口調で父親に伝えます。

「私、昔からお母さんのことが不思議だった。家のこと全部やらされて、まるで家政婦みたい。お父さんはお母さんに全然優しくしない、感謝もしない。そこにいたら、私は私じゃいられなくなる。私は“家の何か”じゃなくて“私”でいたい。その家には一生戻らない」

そう告げられた父親は、「お前、家族を見捨てるのか⁉︎」とヒステリックに叫びます。「もう連絡してこないでください」と電話を切ろうとする春日さんに向かって、「おい、待て! 親不孝者!」と大声で怒鳴る父親…。私は普段、誰かに対して“お前”という言葉を使いませんが、このシーンでは「お前が言うな。この毒親が」と思わず呟いてしまった。そのくらい腹が立ったし、虚しい気持ちにもなった。“相手を平気で傷付ける人間、且つ「自分が悪かった」とは微塵も思わない人間”って、どこの世界にも存在するんですよね。悲しいけれど。

 

 

ところで。「作りたい女と食べたい女」もいわゆる“原作もの”ですが、視聴者目線からは諸々うまくいっているように映ります。主役2人(比嘉愛未さん&西野恵未さん)をはじめ、脇を固める作優陣のキャスティングが秀逸だし、衣装や音楽、もちろん脚本も素晴らしい。NHK制作だと、必要に応じてジェンダーセクシュアリティ考証等も入るため、自分の知識が足りていない分野(←今回のドラマであれば、レズビアンアセクシャル他)に話が及んでも、ある程度安心感を持って観ることが出来ます。


原作ものの場合、“漫画から飛び出してきたような容姿”の俳優さんがキャスティングされたら、まぁ嬉しいは嬉しいですが、単に造形が似ていればそれでいいかというとそうではない気がします。脚本も、台詞の一言一句を原作通りにすればオールオッケーかと問われれば、それもまた違う。“肝となる台詞”や“決め台詞”等は原作と同じにしてほしいけれど、全く変えずに映像化するのは現実的ではありません。漫画に出来て映像では出来ない表現、映像に出来て漫画では出来ない表現というのは当然あるし、補足だったり省略だったりが必要なシーンもあります。

ただ、“それを失くすんだったら、映像化する意味がないもの”は幾つかあると思う。

例えば、原作が持つ世界観、登場人物のアイデンティティ、作者が世に問いたいテーマ、作品に込めたメッセージ…等々です。作品の芯の部分、核となる部分を変えてしまうのならば、最早原作とは別物なわけで、何というか、「これに乗っかっときゃ儲かるだろ」的な発想で動いているとしか思えません。もし「どうしても変えたい」と言うのなら、第三者に頼らず、ゼロからオリジナル作品をつくればいい。自分の力で生み出せばいい。一度“本気のゼロイチ”を経験すれば、世のクリエイター達がしている努力や苦労が少しは分かるだろうし、何より己の力量、そして原作者の才能に気付けるはずです。

それでも気付けない場合は…今とは別方向の仕事に就いたほうがいいかもしれませんね。あなたのためにも、あなた以外の人のためにも。

 

 

 

切なる願い

生成AIについての記事第二弾を書いている最中、大変ショッキングな、出来れば嘘であってほしい訃報が飛び込んできました。漫画家・芦原妃名子さんが亡くなられたというニュースです。


芦原さんは、「姉系プチコミック」(小学館)で連載中だった漫画「セクシー田中さん」の作者。1994年にデビューを果たし、代表作に「砂時計」「Piece」「Bread & Butter」等がある人気漫画家さんです。昨秋、日本テレビ系列で「セクシー田中さん」がドラマ化されたため、そちらをご覧になった方もいらっしゃることでしょう。私はもともと原作漫画を単行本にて読んでいたのですが、ドラマ化を知った際、「まだ連載途中なのに映像化するんだ。結末どうするのかなぁ?」とぼんやり思ったことを覚えています。でも結局ドラマは観なかったから、その後あまり気にしていなかった。再び目にするニュースが、こんなにも悲しい内容だとは予想だにしませんでした…。


私は本と同じくらい漫画も大好きで、日頃からいろいろなジャンルの漫画を読んでいます。漫画を原作としたアニメ・映画・ドラマが多いのは今に始まったことではないけれど、愛読している漫画がメディア化されることを知った時の“心の声”は、概ね次のような感じ。


①ボイスコミック化、ドラマCD化、朗読劇化

「やった〜♪」(どれも声優さんが演じてくれるため、とっても安心&期待大。歓喜‼︎)

②アニメ化

「嬉しい!」(キャラクターデザインを確認し、原作のテイストから大きく外れていない限り視聴)

2.5次元舞台化

「あぁ、そうですか」(一応キービジュアルは確認。それ以降は特に何もせず)

④ドラマ化

「実写化ねぇ…」(局がテレビ東京もしくはNHKだったら、とりあえず初回は観る。その他の民放であれば、キャストや制作陣、キービジュ次第で視聴する場合もあり)


上記の通り、純粋に喜びを感じるのは①②のみです。実際、①で原作のイメージを壊されたとか、「違う」と感じたことはほとんどありません。②はキャラデザが原作のテイストとかけ離れていたり、不要なアニオリを入れ込んできたりして落胆することもなくはないけれど、基本的には嬉しいです。③④は、原作の世界観を見事に表現してくれるケースも稀にあるものの、これまでの経験上、大抵わけの分からない改変をされたり、“原作に対して愛がない”ことが丸わかりの作りだったりする。よって最初から期待していない…というか、そもそも実写化なんて少しも望んでいません。

 

 

今さらですが、漫画家さんって本当に本当に凄いと思うんですよ。ストーリーを考えて、キャラを生み出して、コマを割って、絵を描いて、台詞を喋らせて、時にはキャラの表情や目線、指先一つ、或いは風景のみで、登場人物の心情だったり時の流れだったりを読み手に伝える──文章だけでも、絵だけでも、台詞だけでも相当骨が折れるのに、クリエイターとしての要素が何種類も詰まっているため、“幾つもの才能”がないと就けない職業だと感じています。そして、作品づくりに伴う「生みの苦しみ」もまた、想像を絶することと思います。

ゼロイチというのは、どの世界においても言葉では言い尽くせないほど大変です。「0から1」と「1から2もしくはそれ以上」は、根本的に全っ然違う。原作を愛し、深く理解し、最大限尊重してくれる優秀な脚本家さんも数名いるけれど、今回はそうではなかった。残念なことですが、今も昔も、そうじゃないケースのほうが圧倒的に多いと感じています。加えて、原作者の立場があまりにも、それはもう不自然なほどに弱い。何もないところから作品を生み出しているのは、紛れもなく原作者である漫画家さん達なのに…。


この場をお借りしまして。

素晴らしい作品を私たちに届けてくださる漫画家の皆様方へ。読者が、ファンが一番に望んでいるのは、作品のメディア化では決してありません。皆様方が表現したい世界を、物語を、思う存分、描きたいように描いてくれることです。そりゃあアニメ化されたら嬉しいけれど、制作にあたり、もしも原作者としての信念を曲げなければいけないようなら、きっぱり断ってくれて全然大丈夫ですし、読者としてその姿勢を強く支持致します。

我が子のごとく大切であろう作品を無理してメディア化する必要はないし、仮にメディア化を承諾した後でも、「こんな改変は納得できない」「当初の約束と違う」「自分が表現したかったのはこういうことではない」等と感じたら、制作途中だろうが何だろうが、その時点でどうぞストップをかけてください。読者が悲しむとか、周囲に迷惑をかけるとか、そんなふうに思う必要は全くないです。精神的に辛かったり、ダメージが大きすぎて仕事が手につかなかったりしたら、迷わず休養してください。心身の健康が何より大事ですし、ファンは好きな作品をいつまでも、いくらでも待てます。読者のことはお気になさらず、安心して休載してください。もし「読者に待たれること」…それ自体が苦しいのであれば、思い切って“筆を置く”という選択肢もあります。

ですからどうか、死だけは選ばないでほしいです。いち漫画ファンとして、心の底からお願い致します。命を絶たないでください。切に切に、お願い申し上げます。

 

生成AIとクリエイター

今月17日に発表された、第170回芥川賞直木賞。料理をしつつ、テレビから流れてくる「芥川賞は九段理江さんの『東京都同情塔』、直木賞は河﨑秋子さんの『ともぐい』、および万城目学さんの『八月の御所グラウンド』がそれぞれ受賞」とのニュースを何気なく聞いていた次の瞬間、「え…?」と思考&体がフリーズしました。キャスターが、「芥川賞受賞作『東京都同情塔』は、文章生成AIを使用した小説」だと伝えていたからです。


まずは「いつかはこういう日が来るだろうと思っていたけども、まさかこんなに早いとは」という驚き。次に「芥川賞でそれやっちゃうんだ…!」という衝撃。ただ、詳しく調べてみると、私が危惧していた類の使用方法とは全く異なりました。


当初、「今回の小説は、ChatGPTのような文章生成AIを駆使して書きました。全体の5%ぐらいは生成AIの文章をそのまま使っているところがあります」という九段さんのコメントを読んで、「5%ならいいってこと? もしそれが50%だったら? 95%だったらどうなるの? っていうか、“オリジナル作品”の定義って一体…⁉︎」と様々な疑問や憤る気持ちがわき上がってしまい、とても冷静ではいられなかった。

〈もしかして、プロットの段階でAIと共同作業してたとか?〉

〈AIが書いた文章をそのまま使って、それを自分名義の作品として発表する人を“作家”と呼べるのだろうか。そもそも著作権はどうなるんだ?〉──etc.


でも、情報を集めたらそういうことでは全然なかったです(*ちなみに小説はまだ読んでいません)。

「東京都同情塔」の舞台は、既に生成AIが浸透している近未来の日本社会。作中に生成AIが登場するシーンがあるそうで、「そのまま使った」というのはその部分に関してなんだとか。それなら描写として必要だろうし、リアルさを追求する意味でもそのまま使用するのは理にかなっています。詳細を知らないうちから、えらく取り乱しちゃってすいませんね…(汗)。


なれど、強い危機感を覚えているのもまた事実です。九段さんは上記のような使い方をし、且つ「文章生成AIを使った」ときっちり公表していますが、今後そうでないパターンが出てくる…というか、実際問題、もういろんなところに紛れ込んでいるであろうことが予想できます。文章に限らず、写真、イラスト、楽曲等、あらゆるものの著作権だったりアイデアだったりが、これから世界中で加速度的に侵害されていくことになるでしょう。


私も、単なるお遊びとか、個人的に楽しむだけとかなら「まぁ許せる範疇かな〜」とは思うんですよ。誰々っぽい絵を描いてみたい・誰々っぽい写真を撮ってみたい・誰々っぽい文章を書いてみたい…的な願望を抱くこと自体は理解できますし。でも、それを商業ベースに乗せて、人の褌で相撲を取るのは「どう考えても違うでしょ」と感じています。


絵を描くのも、写真を撮るのも、文章を書くのも、基本的には楽しいけれども本当に本当に大変です。労力だって時間だって相当要る。時間と手間をかけて、やっとこさ確立したオリジナリティーを横から掻っ攫われ、勝手に分析されて勝手に使われ、その上一銭にもならないんじゃあ、クリエイターはいずれこの世から消えてしまいます。そんな未来、私は嫌だ。生みの苦しみを味わいながらも、素晴らしい作品を世に送り出してくれるクリエイターの方々に、ずっとずっと活躍し続けてもらいたいし、正当な報酬を得てほしいし、何より創作意欲を失ってほしくない。人々の心を震わせてくれる音楽・絵画・写真・文章等は、無料或いは安価で好き放題ばら撒いていいわけがないのです。そんなことがまかり通ってしまうような世界にしたくありません。


生成AIは確かに便利だし、そこから新たに生まれるもの、そして受ける恩恵も沢山あることと思います。ただし開発するのであれば、同じくらいの精度とスピードでAIチェッカーも開発してくれることを望みます(現に、フェイク動画やフェイク画像等で被害に遭っている方が大勢いますから…)。各国、法整備やガイドライン作りも出来るだけ急いでほしい。“やったもん勝ち”状態になってしまうことは、何としても回避してもらいたいです。


最後に。私見ですが、今回の芥川賞は「生成AIと共存していく未来を、一人ひとりがもっと具体的に想像せよ」という意味合いも含んだ選考だったのかな?と感じました。事実私も、注目度の高い芥川賞だからこそ強い衝撃を受け、生成AIについて深く掘り下げて考えたんだと思います。

調べれば調べるほどいろんなことが気になってきたので、次回以降、小説以外の事柄についても綴る予定でおります。貴重な“気付き”をありがとう、芥川賞

 

疑惑のアイコンタクト

それは、昨年末某日のこと。雑誌記者時代に担当していた歌手から久々に連絡があり、「お願いごとがありますが、今話してもいいですか?」と訊かれました。

彼は韓国人で、ソウルの出身。「もうすぐ家族が遊びに来ますから、東京案内したいです。でも僕、日本語全部は喋れません、漢字も読めるの少しだけです。家族は日本語分かりません。◯◯さん(←私の名前)、前に韓国取材行った時英語喋っていましたね? 僕の兄、英語出来ます。母はとても人見知りですが、韓国で◯◯さんと会っていますから大丈夫と思います。だから一緒に東京案内してくれませんか?」という内容です。


率直に言って、「若干荷が重いな」と感じました。お兄さんは数年間の留学経験があるため、操るのは「ネイティヴレベルの英語」。一方私の英語はすんごく適当と言いますか、会話でコミュニケーションを図ることはまぁ可能なものの、ペラペラだったり文法が完璧だったりするわけでは全然ありません。よって、込み入った話…例えば建築物やら料理やらの詳しい説明を求められても、「それは絶対に無理!」と自信を持って言い切れます(笑)。

なれど、韓国取材(=彼のルーツを探る的な記事作成のため)の折、ご実家におじゃまして幼少期のアルバムを見せていただいたり、お母さんの手料理をご馳走になったり等多大なご協力を賜りましたゆえ、そのお返しをしたい気持ちがあるのもまた事実。期待に沿えるだろうか…?という不安を抱きつつも、「現地でお世話になったお礼として」引き受けることに。


そして迎えた当日。皆さん初来日とのことで、事前に「行ってみたい」と要望があったのはベタな場所がほとんど。私は東京出身ですし、案内自体はさほど難しいことではありませんでした。途中で「これ、ガイドっていうよりカメラマンとしての需要なのでは?」と感じたけれど(笑)、写真撮影は大好き+腕に覚えもあるので、心底「役に立てて良かった♡」と思いました。歌手としてステージで輝く姿はもちろん素敵ですが、「今自分が頑張っている地・Tokyo」を家族に紹介し、自然な笑顔でカメラに収まる彼も同じくらい素敵だった。彼らの貴重な“思い出作り”のお手伝いが出来たこと、本当に本当に嬉しく思います。

 


ただ、一つだけ残念なことが…。何かと申しますれば、お兄さんの奥さんを含め、ご家族全員が完全なる“クチャラー”だった点です。

 

彼自身も来日当初はクチャラーだったそうですが、事務所の方や周りの日本人に注意され続け、「一生懸命改善した」んだとか。私も彼の担当になった際、「食事の時、音がしていたら教えてください。自分ではあまり分からないですから…」と頼まれました。確かに、時々クチャクチャ、ペチャペチャ他不快な音が聞こえることがあったため、その度に目で合図を送って指摘。多分、かなり細かく指摘していただろうと思います。

というのも、私は昔からクチャラーが大の苦手。クチャラーの人とは友達になれないし、カフェやファミレスで運悪くクチャラーが近くに座ってしまったら、その時点で食欲がゼロに…。そんな時は諦めて席を立つか、イヤホンで激しめの音楽を聴いて何とか誤魔化す策で乗り切っている次第です。

でも、今回はそういうわけにはいきません。現在、彼自身はほぼ改善していることもあり、“元クチャラーだった事実”をうっかり失念していたんですよね…。ご実家で手料理をいただいた時も、お母さんは召し上がらずキッチンでひたすら作り続けておられたため気付きようがなかった。そうか〜、小さい頃からの環境&習慣か〜。


私は韓ドラをあまり観ないのですが、その理由も実はここにあります。韓ドラというのは食事のシーンが非常に多く、そしてクチャラーの数も相当多い。見目麗しい俳優さん方が大勢出演していても、食事シーンで「うわぁ….」と拒絶反応が出てしまうと、それ以外のシーンまで色褪せて見えちゃうんですよねぇ(汗)。日本人が豪快にラーメンやお蕎麦をすするのと同じように、韓国では音を立てて咀嚼するのがスタンダードなのでしょうか? うーん、分からない。


さて。締めの高級ディナーの席で、思いきり食欲が失せてしまった私(*しかも奥まった個室だったから一層音が響くんですよね…。控えめに言って地獄でした・泣)。ご家族につられてか、彼もだんだんクチャラー化していきます。その地獄に耐えかねた私が、かつてのように「音、出てるよ。気を付けて」という合図を目で送り続けていると、コース終盤、お兄さんが彼と私を交互に見ながら一言。「2人はそういう仲なの?」。

「え? いやいや、まさか(笑)。年も離れてますし、何より私は既婚者ですよ」

「既婚者なのに、弟とそういう仲に?」

「ですから違います。冗談はやめてください」

「じゃあ、食事中なんでそんなに何度も何度もアイコンタクトを?」

「それは、それはですね…」

イヤ言えない〜!  「弟さん…というかあなた方全員がクチャラーで、それを指摘するために逐一目で合図を送ってました」なんて、私にはとても言えない〜‼︎


最後まで謎の疑惑を抱かれたまま食事を終え、某高級店をあとにした私たち。

「◯◯さん、今日は色々ありがとうございました。家まで送ります」(彼)、「いいです、大丈夫です(焦)!」(私)、「夜遅いし女性一人では危ない。送ってさしあげて」(お母さん)、「夫がいる女性を家まで送るのか? お前、もしかして過去にも彼女の家に行ったことがあるんじゃないか⁉︎」(お兄さん)等々すったもんだし、もう面倒くさいので、結局乗る必要のぜ〜んぜんないタクシーをソッコー拾って一人、帰路についたのでありました。

お母さんにちゃんとお礼が出来たのは良かったけども、何だか無駄に疲れた一日だったなぁ…。

 

余談ですが、その昔「“アイコンタクト”って和製英語っぽい響きだよな〜」とぼんやり思っていた私。実際は普通に英語で、「make eye contact with」的な感じで使うことが多いみたいです。確かに、彼のお兄さんも私を問い詰める場面でしっかり使ってたっけ…(泣)。