女風は、用法・用量を守って正しく利用いたしましょう。

既婚ユーザー・ネギブロコの女性用風俗利用日記+日常譚

【コラム㉕匂い】

以前にもご紹介した通り、施術の流れはどこのお店も大体共通しています。カウンセリング→シャワー→普通のマッサージ(指圧、アロマ、パウダー等)→性感マッサージ→再びシャワー…という感じ。アロマオイルやパウダーは、各セラピストさんがイイ香り(またはエロい香り・笑)のものを用意してくれていることが多いのですが、それらの匂いはシャワーを浴びた時点でキレイさっぱり消えます。が、セラピストさん自身がまとっている香水は別。たとえ湯船に浸かっても、ボディーソープをたっぷり使い入念に洗っても、完全に消えることは(私の経験上は)なかった。思った以上に密着度が高いのか、はたまた触れ合っている時間が長いからなのかは分からないけれど、これは意外な盲点でした。


女風を利用し始めて、まだ数回目の頃のこと。セラピストさんとホテルへ行った帰り、彼と別れたその足で駅ナカモールに立ち寄りました。某アパレルショップの店員さんと話している途中で、彼女が「すっごく良い香りですね♡」と褒めてくれたのです。でも、その日の私は香水をつけていなかった。不思議に思ったけれど、「そうだ!   大好きなロクシタンのハンドクリームに違いない」と思い、「この香りですか?」と右手を差し出します(直前に塗ったばかりだったので)。店員さんの答えは「あ、これとは違いますね」。え、じゃあシャンプー? それともヘアオイル?  「どちらも違うみたいです」となれば、残るは一つしかありません。


セラピストさんの香水──(ちなみに、流行りの「♪ド〜ルチェ&ガッバ〜ナ」ではない・笑)。


我が夫は、私が髪を切ろうとネイルを塗り替えようと香水をつけようと、本当に何も言わない人です。言わないだけじゃなく、実際気付いてないんですけどね。昔、「今日美容院行ってきたんだ」と言ったら、しっかりガッツリ顔を見つつ「へぇ、何してきたの?」と返ってきて膝から崩れ落ちたっけ(笑)。だから“妻のものじゃない香水の匂い”が部屋の中を漂っていたとしても、そもそも“妻が持っている香水”自体を知らないのだから問題はない。されど、香りに敏感なパートナーやご家族が自宅で待っている場合は、それなりに注意を払ったほうがよいかと思います。香水の匂いというのは、気付く人はすぐさま気付きますので…。

 

文字霊

前にも書いたかと思いますが、我が夫はドラマ「ブラッディ・マンデイ」(2008年及び2010年)での演技に魅了されて以来、三浦春馬さんの作品を好んで観てきたそうです。私自身も好きな俳優さんの一人なので、全部ではないけど彼の出演作は割と観てきました。ここ最近で一番好きだったのは、紀行番組「世界はほしいモノにあふれてる」(※以降「せかほし」/2018年4月〜)でのMCぶり。木曜の夜にまったり観られる&自分も旅している気分になれるし、もう一人のMC・JUJUさんとのやり取りも微笑ましくて好きでした。三浦さんの素敵さやおちゃめ加減もさることながら、番組全体の雰囲気が素敵なんですよね。温かくて穏やかで、且ついろんな意味でとってもカラフル。神尾晋一郎さんの、落ち着きつつも心がワクワクするようなナレーションも好みです。


正直に言えば、番組開始当初から視聴していたこともあり、“三浦さんのいない「せかほし」”をきちんと受け止められる自信がありませんでした。だから、三浦さんに代わって「新MCに鈴木亮平さんが就任」との記事を読んだ時は、今までに感じたことのない気持ちになった。鈴木さんも大好きな俳優さんだし、番組の雰囲気にも合っているし、人選として素晴らしいと思う。ただ、「リアルタイムで観るのはまだキツイかもしれない」と思い、JUJUさん・鈴木さんコンビでのスタートとなる10/8、2回目となる10/15放送分は視聴せず、ひとまず録画しておくことに。けれど、三浦さんが亡くなってから今日(10/18)でちょうど3ヶ月。意を決し、追悼の想いも込めて本日、彼の出演作品をまとめて観ることにしました。


まずはドラマ「おカネの切れ目が恋のはじまり」(私ではなく夫が録画していました)。普段なら、テーマや出演者層などから「観なくていいや」と判断するタイプのドラマなのですが、全4話だし、三浦さんの遺作となった作品なので観ることに。内容の感想云々より先に、「三浦さんってあんなにガリガリだったっけ?」と感じたのが第一印象です。特に、ジャケットを脱いでTシャツ姿になった時は驚きました。細い。細すぎる。設定的に高級料理を食べまくっているであろうお金持ちのボンボンには、とても見えません。続いて「これ、本当に彼がやらなくちゃいけない役柄なの?」という疑問。私だけかな?と思い夫に訊いたら「僕もそう思う。だから1話の途中で観るのやめた。あ、観たら消していいよ」と返ってきました。そうですか…。


私は一応全4話を観ましたが、最後の最後に強烈な違和感を覚えました。最終回終了後、「春馬くん ずっと大好きだよ キャスト・スタッフ一同」という馬鹿デカイ文字のテロップが表示されたのです。ものすごい違和感。全4話(しかも三浦さんの出演シーンは実質3話までに等しい)ということは、撮影期間は通常の連ドラの1/3程度と思われます。スタッフとの関係性だって、そこまで深くは築けていないと予想できる。にも関わらず、「春馬くん」や「大好きだよ」という呼びかけ…。彼に直接話しかけるならまだしも、公共の電波に乗せ、大人の男性(その上主演俳優。芸歴だって長い)に向かって「春馬くん」と呼び、タメ口でのメッセージを送る。ちょっと信じられず、思わず巻き戻して確認したほどです。私の目には、「ほら、親しげでしょ? 僕たちは現場で仲良くやってたんですよ」というアピールにしか映りませんでした。愛情など、微塵も感じられなかったなぁ…。


一方「せかほし」は、三浦さんが亡くなった数日後の放送で、視聴者及び彼へのメッセージとして「三浦春馬さんが7月18日にお亡くなりになりました。番組を応援してくださった多くの皆さんとともに、心より感謝と哀悼の意を表します。三浦さん、2年半ありがとうございます」と表示(かなりの秒数を使って)。「ありがとうございました」という過去形ではなく、「ありがとうございます」という現在進行形の言葉です。加えて、これまでの総集編を放送する際も、「追悼SP」等ではなく「感謝祭SP」というタイトルを付けていた。普通、「愛」というのは目に見えないことが多いけれど、「せかほし」の“三浦さんへの愛”は、はっきりと見えたように思います。それくらい、2番組の差が激しかった。どちらの番組も同時期に撮影しているはずなのに、三浦さんの顔色や表情が全く違うように見え、観ていて胸が苦しくなりました。


そして鈴木亮平さんに代わってからの「せかほし」。いえ、「代わって」というのは少し違うかな。番組全体の空気感はそのままだし、MC2人がごく自然に三浦さんの名前を出し、彼の話をサラッとしてくれるため、“三浦さんも一緒に”という感じがすごくします。初回の生放送で、鈴木さんは「大切な友人から受け取った大切なバトンなので、皆さんと一緒に思いきって楽しんでいきたい。春馬くんとおんなじものは、自分はもちろん出来ないんですけど、番組の良さだったり、彼が愛したこの『せかほし』を引き継いでいけるように楽しんでいきたいと思います」と緊張しながら挨拶。鈴木さんの大変誠実な挨拶を聞いた時点で、「次回からリアルタイムで観よう」と心に決めました。


JUJUさんも、自分のことを姉のように慕ってくれていた三浦さんが旅立ってしまいお辛いでしょうし、鈴木さんも並々ならぬプレッシャーを感じておられるかもしれません。でも、だんだん、時間を掛けてゆっくりと“お二人の番組”にしていけばよいと思います。三浦さんと神尾さんは、いわば“縁の下の力持ち”ってところでしょうか。いつもニコニコ、控えめだけど、裏でしっかり支えてくれている感じ。やっぱり「せかほし」は良質な番組だなぁと思います。これからも楽しみにしています。


最後に一つ。今回のことで、“口から発する言葉の力”と同じくらい、“文字の力”(人の手で書いた文字であれ、テロップやネットへの書き込み等であれ)も大きいことを再確認したような気がします。私は“言霊(ことだま)”って本当にあると思っていますが、「実は“文字霊(もじだま)”もあるんじゃないか?」と考えています。今日、2つのテロップを連続して見たことで、そのことをより強く感じました。もちろん、あくまで私見に過ぎませんし、異なる意見があるのも承知しています。いろいろな意見があって当然です。ただ、「実際に差を感じた」というのは紛れもない事実。よって「言葉や文字は、自分も含めて慎重に扱わなければいけない」と改めて思いました。これまでにも書いてきたことだけれど、言葉の力、文字の力は本当に偉大です。先人達がせっかく「言葉」や「文字」を編み出してくれたのだから、出来るだけ正しく&思いやりを持って使いたいものですね。

 

防曇レンズ

夫の誕生日を祝うべく、「10日に出掛けようか?」と話していた先週末。あいにく悪天候(というか台風)だったため家で過ごし、翌11日にそのままスライドさせました。


誕生日プレゼントには「外出時用の眼鏡が欲しい」とのリクエストがあり、いくつか候補店をピックアップ。足を運んだのは、①どこのショッピングモールにも入っている眼鏡量販店、②そこそこ値が張る眼鏡専門店、③かなりの高級眼鏡店、の3つです。


行く前から「③は値段的にナシ」と呟いていた夫。ならば何故わざわざ?と不思議に思って訊いたら「一度行ってみたいんだけど、あんな高い店に一人で入る勇気がない」とのことでした。へぇ、そうなんだ! 私の中には全くない感情なので、かなり興味深い答えだったな〜。


さてさて。3店舗とも見て回り、それぞれの店員さんとも軽く会話を交わしました。その結果、夫が選んだのは②のお店。まぁ、正確には“私が②を薦めた”という感じですけどね。


私の誕生日(約3ヶ月前)には靴を買ってもらったのですが、「あの靴よりこの眼鏡のほうが高い」と夫が値段の差を気にして①を選ぶ素振りを見せたので背中を押しました。「価格はひとまず置いといて、一番気に入ったのはどれ?」と尋ねると、「②のお店にあった、深緑色のフレーム」との返事。既に絞れているなら話は早い、悩む必要などありません。「じゃあそれにしよう‼︎」と即決しました。贈る側も、“本人が気に入ったもの”をプレゼントできるほうが嬉しいですからね♡


我が夫は「対等な夫婦関係」に強いこだわりを持っています。それは全くの同意見なのでありがたいのだけれど、私が思う対等というのは“キッチリ割り勘”とかそういうことではありません。立場や心が対等であればそれでよくて、「どっちが多く支払った」なんてことをいちいち気にしているわけじゃあ全然ない。まぁ、割り勘が非常に分かりやすい指標なのは確かなんですけども、もう少しざっくりしててもバチは当たらないと思います、ハイ(笑)。


それはそうと、皆さん“防曇レンズ”ってご存知でしたか? 私は防曇という言葉自体を知らず、初めて聞いた時は「ぼうどんって、お主は眞栄田郷敦(まえだ・ごうどん)か!」と思わずツッコミを入れてしまうところでした(笑)。夫も最近になって存在を知ったそうなのですが、「眼鏡+マスクして外出すると、どうしてもレンズが曇る。100%じゃないにせよ、それを防げるレンズがあるらしい」とのことで、「外出時用の眼鏡」をご所望だったみたいです。深く納得。


ちなみに、数日間使用してみた感想は「確かに快適」だそう。「一度息をかけて故意に曇らせて、その後専用のクロスで拭けばほとんど曇らない。今まで(←もともと持っていた普通の眼鏡)はしょっちゅう外して拭いてたのに、これはすごい。ありがとう」と感動していました。良かった、良かった♪

 

自己の証明

会社を辞めてから約3週間。離職票ほか書類一式が自宅に届いたので、先日、諸々の手続きをしてきました。手続き後に実感したのですが、仕事も運転免許証も持たない人間は、とっさに「自分が何者であるか」を証明するのがすっごく大変なんですね…。


私は生涯、車を運転するつもりがないし(笑)、「東京で生活するなら車は必要ない」と思っているため、免許を取得していません。よって、「身分証を」と求められた際は社員証、健康保険証、(事前に準備していたら)パスポートを提示していました。けれど現在、当然社員証はありませんし、保険証も切り替え中で手元には未着、パスポートもつい先日、気付かぬうちに10年が満了してしまっており(泣)身分証としての効力はゼロ。マイナンバーカードも取得しておりませんゆえ、現在“私が私である証明”をするのが非常に困難な状態です。これは今までに置かれたことがない状況で、何と言うか、めちゃくちゃ心細い。よほどの事情がない限り、住民票やら国民年金手帳やらを持ち歩くことはないと思っていたけれど、今こそまさに“よほどの事情”なのだと気付きました。だって、何かあった時、すぐに身分を証明できるものを携帯できていないのですから。この事実だけで、人はこんなにも心細いものなんでしょうか。


しかも仕事をしていない今、外で呼ばれる名前は夫の苗字です。私は夫婦別姓を希望している者の一人ですが、「制度が整うまではペンネームだと思って諦めよう」と覚悟を決め、妥協して夫の姓になりました。でも、正直言ってやっぱりイヤだし、結婚して1年近く経っても全然しっくり来ていません。「これは私の名前ではない」という感覚が非常に強く、公的機関等で「◯◯さ〜ん」と呼ばれても気付かないことが多々あります。それほどまでに馴染んでいない…というか、想像していたよりずっと「受け入れたくない」んだろうと思います。


「自分のじゃない」と思っている名で呼ばれ続けると、何とも表現しがたい、虚無感のようなものが募ります。「◯◯さんの奥さん」とか「◯◯ちゃんのママ」とかもそうかもしれないけれど、確かに呼ばれているにも関わらず、そこに自分が存在していない感じがするのです。これまで三十数年間に渡り、旧姓+下の名前の組み合わせで“私”として生きてきたわけで、夫と結婚して「半分変わりましたよ」と言われても、急に慣れるのは難しい。加えて、夫の姓は本当によくある苗字で、クラスや職場で2〜3人はカブる名前。親しみやすいけど、愛着は湧きにくいんだよなぁ…。一方私の苗字はそこそこ珍しく、同じ姓の人に現実世界で会った経験は一度だけ。そう考えると、響きがカッコ良くて絶対数が少ない苗字だったら、改姓にもあんまり抵抗がないのかしら。例えば榊、京極、剣持、西園寺、観音坂…下の名前をくっつけて具体的にイメージしてみたけれど、そういうことでは全くないですねコレ(笑)。


要するに、アイデンティティの問題なんだと思います。たかが名前、されど名前。名前というのは、“自分を形成するもののうち、なくてはならない大切な要素”の一つです。それなのに、結婚したら否応なくどちらかの姓に変えなくちゃいけない。しかも現状、大抵は女性が「望まないのに仕方なく」改姓しています(もちろん、望んで改姓する方も大勢おられますけどね)。


一説によると、妻の姓に変える夫は、全体のわずか4%だとか。つまり、少なく見積もっても9割は妻が夫の姓に変え、煩わしい手続きの一切合切を引き受け、改姓によるキャリア中断の危機に晒されているわけです(特に研究者)。私の周りでも、「改姓するくらいなら結婚しない」「改姓したくないから事実婚」という友人・知人が結構います。選択的夫婦別氏制度を導入するだけで、「それなら」と結婚へ舵を切るカップルの数は増えると予想できるのに、最初に議論されてから20年以上、何も進展していないように見えます。普段ポジティブな私でも、これは絶望したくなるほどヒドイ数字。


単に「結婚しろ、子供を産め」と言い続けたってどうにもならないことは、さすがに政治家たちだって分かっているはず。だったら「結婚後、同姓でも別姓でもオッケー」とか「日本全国どこに住んでいようと、同性同士で結婚できる」とか、すぐ成果が出そうなものをスピーディーにどんどん進めればいいのにと思います。何事も時代に合わせて変えていかなければ淘汰されるだけだし、このまま手をこまねいていたら未婚率は上がる一方でしょう。個人的には「別にそれでもいいじゃん」という考えですが、国が「それでは困る」と主張するのなら、それ相応の対策とセットで言ってもらいたい。


妊婦の苦労を体感するのは難しくとも、改姓に伴う手続きの煩わしさ、「アイデンティティを揺るがすような虚無感」を味わうことは誰にだって体験可能です。男性政治家たちも、身をもって経験してみたらいいと思います。結婚による改姓がどれほど苦痛か、または何も感じないか、或いは嬉しいか。“他人事”ではなく“自分事”として実体験すれば、少しは“その立場に置かれた人間”の気持ちが分かるかもしれません。

【コラム㉔公私混同】

多くのセラピストさんは、日々きちんと&素晴らしいお仕事をされています。勉強熱心だったり、極上の癒やしをくれたり。誠にありがたいことです。でも、中にはプロ意識が低いとかお金儲けに走ってるとか(笑)、“正当な報酬を支払うに値しない人”も少なからず存在する。まぁ、これはセラピストさんに限らず、どんな職業でも当てはまることですけどね。


さて。大変唐突ではございますが、私は若い時分から今日に至るまで、「是非ともオーラルセックスをしたい」と望んだことがほぼありません(相手にやってもらうのも、自分がするのも)。

長めのセックスが好きなせいか、胸や秘部を早々に触られるより、耳や背中、脚などを、じっくり時間を掛けて愛撫されるほうがず〜っと気持ちいい。それに、ある程度会話しながらイチャつきたいので、出来ればおクチは空けておきたいのです(といっても、キスは大歓迎♡)。歴代の彼氏達にも同じことを伝え、10代の頃からなるべくオーラル無しのセックスをしてきました。その上で、「もっと気持ちよくなってほしいから舌も使いたい」とか「お返ししてほしいとかじゃなく、単に自分が舐めたいだけ」と主張する人には遠慮なくやってもらう…というスタイル。


私を本筋に戻しますと、今回皆さんにお伝えしたいのは、「セラピストの中には、『舐めてくれ』だの『口でしてほしい』だの、そんなセリフを悪びれもせず吐く輩がいる」という現実です。

もちろん、ユーザー側もそれを望むなら何ひとつ問題はありません。その行為自体が好きな女性もいるし、例えば「彼氏にしてあげる前の練習として」だって構わない。私自身も、セラピストさんの秘部に手を伸ばすことは時々あります。

ただしそれは、「彼はちょっとMっぽいから、焦らして楽しみたいな♪」とか「この人が気持ちよくなってる表情を見てみたい、声を聴いてみたい」等と感じ、あくまで自発的に行うものです。恋人ではなくお客とセラピストなのだから、ユーザーの希望は叶えてもらっても、セラピストの欲求を満たしてあげる義理は全くない。にもかかわらず、自分も快感を与えてもらおうとする輩なんぞ、本当に“名ばかりセラピスト”だと思います。


セラピスト以外にも当てはまることですが、私は“プロ意識を持ち合わせていない職業人”が大嫌いです(笑)。その仕事で収入を得ている以上、バイトだろうが腰掛けだろうが副業だろうが本業だろうが関係ない。どんな職種や立場であれ、工夫して、楽しんで、誇りを持って“プロ”として働いている人は皆さん素敵です。当然、誰でも素人からスタートするわけなので、最初のうちは一人前の仕事が出来なくて当たり前。それを咎めたり責めたりする気は毛頭ありません。私だって、そういう時代を経て今に至っているのですから。


されど、技術や知識、経験が足りなくとも、気持ちを込めたり心を尽くしたりすることは新人にも出来ます。というか、むしろそこが一番の武器になると思う。よって、半人前の社会人にこそあってほしい“心の部分”が欠けていたら、そこには本当に何もないことになってしまいます。セラピストで言えば、どんなに顔がカッコ良くても、仕事中に「舐めてほしい」などと口にするヤツ(笑)は心底しょうもない。それはプライベートで勝手にやればいい話で、職場に持ち込むなんて言語道断です。


“平気で公私混同する職業人”に、ロクな人間はおりませんのでね〜(私調べ・笑)。

 

「顔」の変化

16年間勤めた出版社を辞めてから、約半月。昨日は、とある件の打ち合わせに行ってきました。仕事というより“ちょっとしたお手伝い”感が強いけれど、相手は長らく担当させてもらっていた事務所さんなので、恩返しも出来てちょうどよい。なんでも、「ファンクラブ担当のベテランスタッフが急に辞めちゃってさ。望遠レンズで写真が撮れて、インタビューも出来て原稿も書けて、且つ歌手自身とも気心知れてる人ってあんまりいないんだよね」ということで、私に連絡してくれたのだとか。望遠レンズ、売らないでおいて良かったです(笑)。


さて、私が退職したのは先月18日ですが、クライアントさんや事務所さん、担当歌手&俳優に「退社のお知らせ」をお送りしたのはもっと前。その際、かなり多くの方から「遂に独立?」「今後はフリーで書くってことね♪」と言われて驚きました。独立なんて、フリーなんてとんでもない! 私は生涯、フリーランスで記者及びライターの仕事をするつもりはありません。というか、出来ないと思う。


フリーになった場合、営業活動からギャラの交渉、果ては税金の計算まで、ほぼ全てを自分でやらなくちゃいけない。そんなの無理…いえ、やりたくないし、何より人の目、つまり上司や同僚、部下の目がないと、私は確実に仕事をサボります。これは100%、心から自信がある(笑)。それに、他者と協力して何かを創ったり成し遂げたりするのが好きなので、“自分だけでやる仕事”にはあまり魅力を感じません。一人のアイデアでは限界があったり煮詰まったりもするけれど、仲間と知恵を出し合ってそれぞれの案を掛け合わせれば、可能性は大きく広がります。意見がぶつかるケースもありますが、それも含めて楽しいです。


もちろん、フリーになったとて他者との繋がりを失うわけではないけれど、その“繋がり”を維持するための努力は相当必要かと思います。社名にも媒体名にも頼れない=後ろ盾がないに等しいから、注ぐエネルギーは会社員のそれとは比べものにならないでしょう。友人・知人には、フリーのライターをはじめ、カメラマン、ヘアメイク、スタイリスト等が大勢いますが、皆桁外れにパワフルな人たちばかり。稼げる時とそうでない時との差も激しいため、「私には向かない働き方だろうな〜」と予想できます。私はぜひとも、再びどこかの組織に属したい。そして、経理部や総務部のお世話になりまくりたいです(笑)。どんな仕事も、その道のプロに任せるのが一番だと思っています。


それと、もう一つ驚いたことが。辞めてからまだ半月しか経っていないのに、その事務所の皆さんに「顔と雰囲気が変わった。穏やかになった」と口々に言われたのです。


「え⁉︎   私って、今までそんなに怖い顔してました(汗)?」

「イヤ、怖くはないけど、やっぱりいつも張り詰めてたよ。図々しいように見えて(笑)、実はめちゃくちゃ気遣って仕事してたでしょ? そういうの、ちゃんと分かってるから」


包み込むような眼差しでそう言われて、涙腺が崩壊する手前までいってしまいました。ふぅ、危ない、危ない(笑)。でも、「見てくれている人がいた」「分かってくれている人がいた」というのは、本当に本当に、ものすっごく嬉しかった。人は、誰かに認めてもらえたり褒めてもらえたりすると、こんなにも嬉しくて誇らしくて、全身からやる気が漲ってくるものなんだなぁ。言葉の力は偉大です。私も見習おう。


というわけで、ご依頼頂いた件、全力で頑張りたいと思いま〜す♡

 

反面教師

数日後、夫の誕生日がやって来ます。「欲しいものもあるし、新しいカフェも開拓したいし、買い物がてらゆっくり過ごしたい」というリクエストがあったため、何軒かのお店をリサーチ(←主に私ではなく夫が・笑)。その結果、「10日に出掛けようか?」と相成りました。我が家は事前の約束がない限り「休日も別行動」なので、「◯日は空けといてね」の申請がないと誕生日プレゼントも買いに行けないシステム(笑)。でもこのシステム、お互い快適だから変更する気はゼロ。ごくたま〜にガッツリ時間を共有すると、新鮮な上、会話も弾むし結構オススメですよ♪


ところで、今年の誕生日は、夫にとって特別な意味があります。彼のご両親は既に他界されているのですが、お父さんは数年前に70代で、お母さんは随分前に40代の若さで亡くなっている。当時、夫はまだ中学生。反抗期を迎えることも出来ないまま、「病気であっけなく逝ってしまった母」を見送ったのだそう。その年齢に今年、彼が追いついてしまうので「例年とは違う気持ち」なんだとか。先日も「『親と同い年になる』っていうのは、何とも言えない違和感がある」と複雑な表情で語っていました。


夫は、お兄さんと2人兄弟。お父さんは亡くなるまでの三十数年間、再婚もせずに働き続け、男手1つで子育てをしてくれたそうです。ただし、知り合った当初「幸せな家庭だったか?と訊かれたら、決して『うん』とは言えないと思う」と話していたので、相当いろいろあったのでしょう。お父さんの死後、「亡くなって初めて知った」という借金も発覚したようで、その返済に、お兄さんとともに苦しんだみたいです。


夫が子供を望まない理由は「お父さんとの関係性にあるんだろうなぁ」と予想できるけれど、彼はそのあたりについて詳しく語ろうとしません。もともと饒舌なタイプではないですが、詳細を話さない=言いたくない、知られたくないんだろうと判断。今後も、私から尋ねたりする気は全然ないです。話したくなったら話せばいいし、別に一生話さなくたっていい。私は、「夫婦だからって、“心の内側”を全部見せる必要はない」という考えです。現に、私だって夫に見せていない面や感情は山ほどある。それこそ“お互いさま”だと思います。


夫は、「40代で母親が亡くなった」という事実に、かなりショックを受けたようです。当時思春期だったわけですし、そりゃそうですよね…。その影響か、私のこともすごく心配してくれます。「貧血はどう?」「子宮筋腫の治療法、決めたの?」「少しでも体調悪かったら無理しちゃダメだよ。すぐに病院へ行って」等々。「君の生活に口を出すつもりは全くない。でも、身体のことについて言うのだけは許してほしい。母の病気は、驚くほど早く進行したんだ。診断されてから亡くなるまで、あっという間だった。その怖さが、今もずっと残ってるから…」。


お母さんは、来る日も来る日も「亭主関白型の父」に合わせて暮らし、「苦労を重ねた挙句、病に倒れて早死にしてしまった」と夫は言います。お母さんのことを語る夫の目には翳りがあるというか、いつもすごく悲しそうです。


結婚してから、もうすぐ1年。共に暮らしていく中で、夫が私に要求することといえば「家計も家事も折半」「何事も平等に」「自分のことは自分で」という点くらい。改めて、「本当に良い人と出会えたなぁ」と実感しています。そして、お父さんを反面教師とし、“全く別の生き方”を選んだ夫のことを尊敬しています。


夫との間にセックスは一度もなく、最近ではキスさえしないけれど、逆に言うと、それ以外での不満はほとんどありません。性的欲求は女風で解消できますから、慣れれば案外潔く割り切れます。もちろん、「最初からスパッと」ではなく「徐々に段階を踏んで」ですけどね。


「人間というのは、“起きてしまった出来事”や“どうしようもない現実”に対して、自分達が思うよりもずっと柔軟に対応できる生き物なのかもしれない」と日々感じています。大抵のことは解決できるし、たとえ解決できなくてもどうにかなる。もしくは「どうでもよくなる」時が来る(笑)。そのくらい適当に生きたほうが人生はラクだし、毎日楽しく過ごせます。突き詰めて考えるのは、時々でいいと思います。


考えすぎると脳が疲れるし、真面目な人ほど精神的にも追い込まれる…というか、自ら追い込んでしまう気がします。夫にもよく言うのですが、悪い意味の“いい加減”ではなく、ほどほどで手を打つ“良い加減”で生きていけばよいと思う。以前、「全部100%を目指す必要はないんじゃない? 得意なこと、好きなことには全力注いで、残りは2とかでいいと思うけど」と言ったら、「え、2⁉︎   2でいいの⁉︎   せめて60〜70くらいは…」と返ってきて驚愕。「そうか、この人は不得手なこと、好きじゃないことにもたくさんエネルギー注いじゃうから、その分疲弊しちゃうんだろうなぁ。大変だなぁ」と思いました。それからしばらく「2…。100のうち2…」と小さい声で呟いていて面白かったけれど(笑)、“2で暮していても、特に支障がないモデルケース”がすぐ側にいるのだから、もっと気楽に生きてくれたらいいのになぁと思います。