女風は、用法・用量を守って正しく利用いたしましょう。

既婚ユーザー・ネギブロコの女性用風俗利用日記+日常譚

「改姓」という名の地獄

プライベートでは例年、20人前後の友人・知人と年賀状をやり取りしています。今年頂いた私用の年賀状は計18通でしたが、昨年までと明らかに違うことがありました。18人中17人が、私の宛名(苗字)を新姓で記していたのです。彼らには、20代の頃から「私自身は結婚願望ないけど、早く夫婦別姓制度が確立すればいいのにと思う」という話をしていたし、結婚した時も「旧姓のままなのでヨロシクです♪」と伝えてあったにも関わらず、です。


「いくら変更がないからって、配偶者の名前を知らせないのはちょっと失礼かなぁ」と思い、2019年度末に投函した年賀状に夫のフルネームを明記しました。「2ヶ月前、◯◯◯◯さんという方と結婚しました」的な感じで。今思えば、書かないほうが良かったんですけどもね…(笑)。


女性も男性も、無意識のうちに“結婚したら妻が夫の姓に変えるもの”と思い込んでしまっているのかもしれません。だから、そのすぐ横に「結婚しても旧姓のままです」と書いてあっても、「一応お知らせをば」と思って添えただけの夫の苗字の印象が勝り、翌年わざわざ宛名を変えた年賀状を送ってくる。そんなに親しくない相手ならまだ分かるけれど、みんなある程度長い付き合いの人達です。自分としては、これまで十分過ぎるほどアピールしてきたつもりだったのに、旧姓のまま送ってくれたのは1人だけ。こりゃあなかなか手強いというか、長い道のりになりそうだなと感じました。


ただ、良かったこともあります。それは「改姓はすこぶる不快」という点と、「この名前(新姓+下の名前)、やっぱり私のものじゃない」という点が改めてはっきりしたことです。これまでは、新姓で呼ばれるのは銀行や病院、役所等限られた場所だけでした。でも、年賀状で身近な人に(文字上ですが)新姓+下の名前を“私のフルネーム”として呼ばれてみて、「心底イヤだ」と感じることがよく分かった。“今日までの私”を勝手に消されたような、なかったことにされたような気がして悲しかったし、夫婦のどちらか(現状9割以上は女性)が我慢しなくちゃいけない状態ってやっぱりおかしい、と痛感。


伴って、転職先を探す際の指針が明確になりました。職種や仕事内容、給与、福利厚生等に加え、“旧姓使用が可能かどうか”。「私は、そこに重きを置いて転職活動していこう!」という決意を固めました。


職場で名前を呼ばれないことはまずないですし、その前に新姓での名刺など持ちたくない。「これは自分のものじゃない」と感じている名前が刷られたものを手渡しながら、「◯◯(新姓)と申します、宜しくお願い致します」と挨拶しなければいけないなんて…。気にしない人にとっては何でもないことでしょうが、私にとってはまさしく地獄です。しかも、夫の姓はクラスや部署に必ず一人はいる苗字。実際、夫の勤務先にも数名在籍しています。夫は中途入社なのですが、仮に“佐藤”とすると、同じフロアに既に2名いらした。呼び方はそれぞれ「佐藤さん」と「佐藤◯(下の名前の一文字)さん」。フロア内で相談した結果、夫は「◯◯さん」と下の名前オンリーで呼ばれることになったそう。上司からも新入社員からも、今では各クライアントからも(笑)。


転職先の規模にもよりますが、もしある程度人数がいる会社だったら、私もそうなる可能性は大いにあります。クライアントだけなら「まぁ仕方ないか」と割り切れるけれど、社内で全員から下の名前で呼ばれるのはだいぶ抵抗がある。通常、気の合わない人や、よく知らない人と下の名前で呼び合うことはないので、想像しただけで違和感アリアリ。夫は「子供の頃からそんな感じだし、僕は何とも思わないかな~」と言っていましたが、なるほど確かに慣れの問題もあるでしょう。でも、私の旧姓はそこそこ珍しい氏なので、それこそ小さい時から苗字をもじったニックネームがほとんどだった。社会人になっても苗字で得をしてきたといいますか、“ほぼ一発で覚えて頂ける”という大変ありがたい利点があるのです。元々夫婦別姓を熱望していたことにプラスして、そういった諸々の要素も絡み合い、改姓はやっぱり、どうあがいても不快。そして苦痛です。


そのあたりは担当エージェントさんとよくよく話を詰めなくちゃ、と思いますが、転職自体は別に急ぐ必要もないので(本日緊急事態宣言も発令されたことですし)、しばらく静観かなと考えています。


この先日本が…というより、地球規模でどうなっていくのか見当もつかないけれど、ここまで感染が拡がっている以上、もうなるようにしかならないと思うので、流れのままに生きていくつもりです。最悪、お米・梅干し・海苔があれば何とかなる(笑)!

 

余っているのに足りない、足りていないのに余る

学生時代、いくつかのアルバイトを経験しました。コンビニに始まり、パン屋さん、某有名巨大施設、高層ホテル内のレストランなど。


最初のバイトは高校生の時、コンビニでした。生まれて初めて“自分でお給料を稼げたこと”も嬉しかったけれど、「社会勉強として実に有意義な時間を過ごさせてもらった」と、今でも感謝しています。


コンビニで働いてみて感じたのは、「世の中って、本当にいろんな人がいるんだなぁ」ということ。毎日来てくれるお客さんはもちろん、週1回だけアイスを買いに来る老夫婦とか、成人誌やコンドームを恥ずかしそうに買うお兄さんとか、突如駆け込んできて「香典袋ありますか?」「ストッキング、置いてます⁉︎」「トイレ〜!」ほか切羽詰まっているであろう状態のお客さんとか、そりゃもういろいろ。


20年以上前なので、業務も今のコンビニよりずっと少なかったし、何よりオーナー(兼店長)さんが穏やかなタイプの男性だったせいか、全体的にのんびりしていてすごく居心地の良いお店でした。常連さんとは「こんにちは」とか「今日はお仕事早いんですね〜」とかの会話を交わし、たまに差し入れを頂くことも。特にアイスの老夫婦は「高校生なのに働いて偉いね。私達には子供がいないから、孫みたいでかわいい」と言ってくれ、私の分までアイスやらお菓子やらを買ってくれることもしばしば。失礼ながらそんなに裕福そうには見えなかったため、「お気持ちだけで十分です」と伝えたのですが、ご夫婦は「まぁ、しっかりしてる! いいの、それくらいさせてちょうだい」と言うし、オーナーも「お客さんの希望なんだから別にいいんじゃない?」と肯定的。今ならありがたく厚意に甘えるけれど、当時は「特定のお客さんにそんなことしてもらうのって、店員としてどうなんだろう…?」と高校生なりに悩んだりしていました。何て初々しい16歳の私(笑)。


それはさて置きまして。コンビニ店員の仕事の一つに、“廃棄食品の処理”があります。店頭に並んでいる商品の中から、消費期限の切れた(正確には切れそうな)食料品を選別して廃棄するという作業です。バイト初日は驚きましたねぇ。「こんなにもたくさん捨てられている」という事実に。お弁当やパン、サンドイッチ、デザートに至るまで、毎回カゴ一つでは収まりきらないほどの量でした。「もったいないなぁ」と思いつつも、廃棄商品を持ち帰ることは禁止されていたし、そもそも実家暮らしなので基本、食事には困らない。3日もすれば「単に私が知らなかっただけで、そういうもんなのかもしれない」とすっかり慣れ、淡々と作業を進めるように。それが多少行き過ぎたのか、はたまた若いのでパワーが有り余っていたのか、廃棄商品への扱いが段々雑になっていきました。「どうせ捨てちゃうんだし、キレイに入れる必要はない。時間短縮!」という思いもあり、カゴに投げ入れるまではいかないけれど、乱雑に重ねる日々。サンドイッチの上にお弁当を乗せたり、お弁当を縦に入れたり。けれどある時、そのことに気付いたオーナーから「ちょっといい?」と呼び出されました。


怒られるのかなと思っていたら、話は全く予想していない内容だった。「お店としては廃棄商品だけど、実は全部を廃棄してるわけじゃない。だからもう少し丁寧に扱ってほしい」と告げられ、「え…意味が分からない」と困惑。よくよく話を聞くと、つまり「困っている人に暗黙のルールで提供している」とのこと。大っぴらには言えないけれども、近くにホームレスの人が何人かいて、その人達に「大体何時頃、この場所に置いておきます」と伝えてある。だからあまり雑に扱わないでほしいんだという話でした。


私は再び驚きました。そのコンビニ付近で、ホームレスらしき人を見かけたことは一度もなかった。オーナーによれば、結構な距離を歩いてきて、しかも「(コンビニ周辺やオーナーに)迷惑を掛けたくない」から、なるべく目立たないよう深夜にしか来ないというのです。なるほど、そうか…。現実にそういう暮らしを送っている人がいて、オーナーは黙って人助けをしてるんだなぁ、すごいなぁと思いました。以降、廃棄商品も丁寧に扱い、誰にも口外せず、今日まで生きてきました。でも、年末年始の様々なニュース(各地での炊き出しに、今までは見られなかった若年層や女性の姿もある等)を目にして、オーナーのことを鮮明に思い出した。


オーナーは、たまたまホームレスの人が廃棄食品を大量に持ち帰る場面を目撃してしまい、声を掛けたんだそう。するとホームレスの人は、咎められると思ったのか「すいません」と繰り返し、「もう二度と来ませんから」と置いて帰ろうとした。オーナーが「怒ってるんじゃありません。どうしてそんなにたくさん必要なんですか?」と尋ねると、「ホームレス仲間がいるんです。足の悪い人もいるので、彼らの分もと思って…」との答え。オーナーは、仲間の人数や年齢などを確認し、「分かりました。毎日人数分置いておくので、必要なら◯◯時頃取りに来てください。ただし誰にも言わず、私と会っても知らないふりをしてくださいね。本来は禁止されている行為なので」と伝え、その日から継続している習慣なんだと明かしてくれました。私は、いろんな意味で「最初のバイト先がここで良かったなぁ」と思いました。


農林水産省の発表によると、日本の食品ロスは年間612万t。国民一人あたりでは一日132g、毎日お茶碗一杯分くらいの食品を、一人一人が捨て続けている計算になるそうです。世界規模では年間13億tの食品が廃棄されている一方、全人口の9分の1は飢餓状態。非常にアンバランスですが、正直言って、今は他国より自国のことを考えるのが先だと思います。飽食と言われる日本で、現在、満足にご飯を食べられない人がいる。原因は貧困、育児放棄、失業ほか様々だと思うけれど、この状況下では誰も他人事ではありません。


余っているのに足りない、足りていないのに余る。


この矛盾をどうにか出来る方法、上手く解決出来る方法、私には全然思いつかないなぁ…。何事においても“バランスよく”って、簡単なようで実際はすごく難しい。

 

【コラム㉗甘い言葉】

当たり前ですが、セラピストさんのタイプは実に様々で、十人いれば十通り。お顔はもちろん、雰囲気、ファッション、話し方、ユーザーとの距離感、施術方法…等々、似たような系統のセラピストさんはいても、一人として“同じ人”は存在しません。


その中には、「甘い言葉」を囁いてくれたり送ってくれたりするセラピストさんもおられます。甘さの度合いもいろいろで、2時間コースなら“きっちり2時間内だけ”の人もいるし、メールのやり取りからして激甘な人もいる。ちなみに、私の中では「カワイイね」とか「キレイだよ」とか「また会いたい」とかは甘い言葉のうちに入りません。いわばサービスの範疇といいますか、早い話がデフォルトですね。


「じゃあどういうのが甘いのか?」と問われたら、例えば「君が感じてる姿見てたらこんなになっちゃったよ♪」的なエロス方面とか(笑)、「他の人に触らせたくないな〜」「もう僕以外指名しちゃダメ」的な独占欲全開方面まで多種多様。対応としては私の場合、お相手が好みのタイプだったり、プレイの相性が良かったりした時以外は華麗にスルーするか、微笑を浮かべてYESともNOとも言わずやり過ごします。好きなタイプだったら、思いきり話に乗っかって会話を楽しみ、その後のプレイにも活かしたりするけれど、そうじゃなければ流すに限る。


「こんなになっちゃった」のは単なる生理現象か、もしくは普通に溜まっているかだし、「他の人云々」に関しては、独占したいのは私ではなく“私のお金”なので、そこのところを勘違いしてはロクなことになりません(笑)。

ただし、そうと分かって話に乗っかるのはものすごく楽しい。「え〜、どうしよっかなぁ」とか「そうなの? だったらむしろ、今度ダブルセラピ(←ユーザー1人に対してセラピストを2人つけること)してみる?」とか、“嫉妬煽りプレイ”みたいなことも出来ます。そうすると「どうしよっかなって何⁉︎    次は僕じゃない人指名するってコト?」とか「ダブルセラピなんて絶対ヤダ! なんでそんな意地悪言うんだよ〜ぅ(泣)」とか展開していって面白い。もちろん実際に嫉妬しているわけじゃなく、“嫉妬しているフリ”ですけれども、お互い泡沫と分かってする遊びというのは、あとくされがないせいかめちゃくちゃ楽しいんですよねぇ♡


さてさて。あくまで私の経験上ですが、優秀なセラピストさんは、そのあたりの線引きが割とはっきりしていることが多い気がします。甘い言葉を囁くのはコース時間内だけで、それ以外はビジネスライク。変に引きずらせないし、夢を見させすぎない。

ユーザーの中には、気持ちの切り替えや割り切りが不得意だったり、“かりそめの台詞”に耐性がなかったりする方もいらっしゃると思います。「甘い言葉」をその場で楽しむのは全く問題ないですけれど、それらを鵜呑みにしたり、後で反芻したりしないことをオススメ致します。度が過ぎると、相手に依存してしまったり、いつの間にかコントロールされてしまったりする結果を招く可能性も否定できないからです。やはり女風は、ほどほどの頻度、そしてほどほどのハマり具合で利用するのが得策かと思います、ハイ。

 

さよなら、2020年

いろいろな意味で濃密だった2020年が、もうすぐ終わろうとしています。新しい年になったからといって、ウイルスが消滅するわけでも、何かが劇的に変わるわけでもありません。されど、気持ちの切り替えをしたり、自分自身と向き合ったりするには大変よい機会かと思います。私は基本、仕事を除くとだらしないといいますか、普段かなり適当に過ごしておりますゆえ(汗)、こういうきっかけはありがたいです。


さて、今年を振り返ると、私の中で「一番大きかった」と思う出来事は、やはり仕事を辞めたことです。9月下旬、16年間勤めた出版社に退職届を出し、天職の一つである「記者」でなくなる道を選びました。あれから約3ヶ月経ちますが、後悔したことはなく、むしろ「良いタイミングだったなぁ」と感じています。以前にも書いた通り、元々ざっくり20年スパンで人生設計をしていたため(20歳前後まで→勉強する&将来の方向性を固める、40歳前後まで→めちゃくちゃ働く&たくさん旅する、60歳前後まで→少しペースダウンして働く&私生活を充実させる)、30代後半での結婚・転職は妥当というか、想定内といえば想定内です。もちろん、結婚相手と一度も性行為がないのは予想外だったけれど、そこから学んだことも多いし、今は「ウチはそういう夫婦なんだ」と割り切っている面もあります。女風の利用を始めてから約1年、“セックスについての考え方”もだいぶ変わりました。この件は長くなりそうなので(笑)、後日にでも改めて。


そして、世界的に見れば当然、「2020年=新型コロナウイルス」でしょう。このウイルスは、病気そのものだけでなく、他の様々な事柄や問題をもあぶり出したような気がします。貧富の差、性差、DVや児童虐待、報道のあり方、政治家のあり方、追い込まれた時に出る人間性、“民意”の恐ろしさ、自殺者の増加等々、数え上げたらキリがない。でも、同じくらい多くの“善意”や、あらゆる分野における創意工夫、技術の進歩等もあったと思います。これ以上ないくらいの逆境に身を置かれても、驚くほどめげずに「何とかしよう」「どうにかして乗り越えよう」とする人々がいる。「病院のお世話にならないように、出来るだけ家にいよう」「怖いけど店頭に立とう」とする人々がいる。その一方で、マスクなしで話したり、お酒を飲んで騒いだり、店員さんにひどい態度を取ったりする人もいる。分かってはいたけれど、「世の中にはいろんな人がいるんだ」と強く認識しましたし、「私は私に出来ることをやっていこう」と思いました。


出来ることと言っても、極力家にいるとか、スーパーには一人で行くとか、配信ライブにお金を落とすとか、その程度です。でも、その“小さな積み重ね”が大事だとも感じています。人間は良くも悪くも慣れてしまう生き物なので、きちんと意識していないと諸々油断しがち。手を洗う、うがいをする、除菌をする。再度基本に立ち返り、経済は回せど自分は動き回らない。そんな当たり前のことを、当たり前に出来る人間でありたいなぁと思います。


ところで。私は熱心なフィギュアスケートファンではありませんが、先日テレビ中継されていた「全日本選手権」(男子)を2日間とも食い入るように観ました。観たというより、“画面に吸い込まれて動けなかった”というほうが近いけれど、羽生結弦選手があまりに神々しくて力強くて頼もしくて美しくて、涙と拍手しか出なかった。ショートもフリーも、本当に本当に素晴らしかった。心底感動したし、パワーをもらいました。あのプログラムをコーチなしで創り上げて、練習も一人で積んできたなんて…。すごいとしか言いようがありません。プラス、私自身は彼の弱音(「精神的にどん底の時期もあった」とか「もう疲れた、辞めてしまおうかとも思った」とか)を初めて聞いたので、驚いたと同時にホッとしました。「羽生選手も神じゃなく人間なんだ」「弱いところも見せられる人なんだな」と。


羽生選手に限ったことではなく、私は“完璧すぎる人”を見ると心配になるというか、「ちゃんと隙を見せられる相手はいるの? 無理してない?」と余計なおせっかいを焼きたくなります。人間はそんなに強くない…というより、弱音を吐こうが泣き言を言おうが「弱い」とは思わないし、百歩譲って弱いとして、それのどこがいけないんだ?と思います。誰だって、強い部分と弱い部分の両方を持っているのに、その片方しか表に出さない(もしくは出せない)人を見ると、何とも言えず心配になる。だから、羽生選手のコメントを聞いてすごく安心したのです。そして、演技中の鬼気迫る表情と、キス&クライでの弾ける笑顔。そのギャップに、今さらながら心を鷲掴みにされました。ギャップがあるのは当然といえば当然ですよね。彼は優れたアスリートであり、表現者ですが、同時に26歳の青年でもあるのだから。


羽生選手は「その時だけでも、自分の演技が終わった後の1秒だけでもいいから、観ている人の活力に少しでもなったらいいなと思いました」と語っていましたが、なんのなんの。何日経っても、多分何年経っても、あの数分間が脳裏から消え去ることはないと思います。いつでも思い出して、パワーをもらえるような演技でした。技術の高さはもちろん、何というか…魂ごと伝わってきた。フィギュアスケートを観て、あんなに涙がポロポロ出て、どうしようもなく心が震えて、翌日のフリー演技を心待ちにした経験は初めてでした。本当に素晴らしかったです。感動とパワーをありがとうございました!


最後になりましたが、皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。私も家でゴロゴロして、年越し蕎麦を食べて、のんびり過ごしたいと思います。


2021年も、何卒宜しくお願い申し上げます。当ブログは変わらず、つまり緩やかに&何の決まりも設けず(笑)更新していく予定です。来年は、少しでも明るい年となりますように。

 

脱・ライター業?

皆さんは仕事納め、もうされましたか? それとも年末までお休みナシでしょうか。私は現在充電中(要するに無職・笑)なので基本的にヒマですけれども、夫は25日が仕事納めでした。例年なら社内の大会議室で納会があるようですが、今年はもちろん開催せず。最終日の夜、同じチームの皆さんとリモートでつながり、今年の総括及び来年の課題等を軽く話して静かに仕事納め。「今年の仕事、今終わりました」「お疲れさまでした」と言葉を交わし、美味しい珈琲とお高めのケーキでお疲れさま会(共にお酒が飲めないし、クリスマスなので高級ケーキを奮発)。その後は普通に夕食をとり、夫はいつも通り23時頃には自室へ。「仕事終わった〜! 今日ぐらい夜更かししちゃおう♪」的な発想は、彼には1ミリもないみたいです。


夫はいつでも規則正しい生活を送っていて、結婚以来「私には真似できないなぁ」と感心しきり。それを本人に伝えると、「それがラクなだけだよ。僕は君のほうがすごいと思う。早朝から出掛ける時もあれば、お昼まで寝てる時もあるじゃない? よく体調崩さないなって。そもそも、一度も起きずに長時間寝られることがすごい。めちゃくちゃ羨ましい」と嫌味とかじゃなく返してきます。夫はベッドに入ってもなかなか寝つけない上、眠りが浅いのか夜中に何度も目が覚めてしまうそう。交際後に初めて旅行をした時、「横になってから3分くらいで寝ててびっくりした。『さっきまで喋ってたのに、もう熟睡してる。こういう人と暮らすなら、僕自身もラクかもしれない』と思った」と言っていました。自分が“気にしぃ”だから、“周りが寝ていようと寝ていまいと、気にせずすぐ寝る人”はラクだと。褒められているのか何なのかよく分かりませんでしたが、「それがラク」だと言うのだから、褒められていることに致しましょう(笑)。


あ…前置きが長くなりましたね(汗)。私は9月に前職を辞めて以降、実にいろいろなことを考えながら、そして日々気持ちが揺れ動きながらの生活を送っています。最初は「思いきって1年くらいゆっくりしちゃおうかな♡」と考え、やがて「いや、すぐ転職先を見つけよう」と思い、今日現在は「せめて春まで待ったほうがいい」とどんどん変化。自分の意思だけじゃなく、コロナの状況にもかなり影響されるため、今後も変わっていく可能性は高いです。されど、変わらないことももちろんある。それは、この先世の中がどうなろうと選ばない…というか、私には務まらない仕事。一つは専業主婦、もう一つは芸能事務所のマネージャー業です。


まずは専業主婦。この世で、私が一番尊敬する仕事と言っても過言ではありません。特に報酬もなく、感謝の言葉もそれほどないのに、何十年間も家族のために働く。これは本当に本当にすごいことです。家事が好きでも得意でもなく、社会や人と関わり、外で働くことが大好きな私からすれば、専業主婦というのは拷問に近い。こればっかりは向き不向きがあると思うので、「家族を支えるのが生きがい」とか「楽しい」という友人も周りに数名います。でも私には無理。全然向いていない。


そしてもう一つはマネージャー業。実は退職後、いくつかの芸能事務所からお声が掛かりました。「次の仕事が決まってないなら、ウチに来てくれないか?」とか「ぜひ手伝ってほしい」とか。ありがたいとは思いつつも、全て丁重にお断りさせて頂きました。ライブや舞台を観るのは確かに好きだし、エンタメ自体も私の人生において欠かせないものだけれど、それと歌手・俳優をマネジメントすること、育てることは全く別物です。ちっとも興味がない(笑)。マネージャー業務の大変さも、間近に見て知っていますしね。もう少し本音を言うと、私は表舞台に出る人の“裏側”をあまり見たくないタイプの人間です。キラキラしている人の泥くさい面や、美しく優雅に泳いでいる水面下(通称“白鳥の水かき”)を、積極的に知りたいとは思いません。


のちのち「あの時はね…」と語る苦労話や、人知れず努力を重ねていた話を聞くのは好きです。でもそれは、あくまで「のちのち」であって、キラキラの直後、もしくは同時に知るのは好みじゃない。キラキラを思いきり堪能したいし、舞台に立つ側の人だって「一番輝いている姿を観てほしい」んじゃないか?と思うのです。だから、リハーサルの模様とかメイキング映像とかも要らない派。私は“完成した作品”を目に焼き付けたいので、それ以外のものは極力見ません(*ただし、記者時代は時間が許す限り好んでリハを見ていました。リハを見ておけば、本番での見どころや撮りどころが分かり、より綿密な取材をすることが出来るからです)。マネージャーさんというのは“それ以外”の時間を多く共有する職種ですから、これまた私には向いていない。お声掛けには感謝していますが、やはり私に務まる仕事ではないと思います。


さらにもう一つ、心境に大きな変化がありました。再就職先の候補として、「ライター業は除外しようかな」と考えるようになったのです。私は16年間、エンタメ系雑誌の記者だったため、当然ライター業も視野に入れていました。されど、約10ヶ月間このブログを続けてみて、“自分の気持ちや悩み、感じたことや体験したこと等を、脚色も修正もせず思うままに綴る喜び”を知ってしまった。これは、商業誌で“ある程度の制約”を受けながら(つまり取材対象者やクライアントの意向を汲みながら)、そして何より“読者第一”の目線で記事を書くこととは似ているようで全然違います。どちらも楽しいけれど、「これから先の人生で、継続して書きたいのはどっち?」と問われたら、今はブログだと即答します。5年後、10年後は分かりませんが(笑)。


人生って本当に不思議ですね。結婚した相手との性行為がゼロで、女風を利用するようになる。私的なブログをスタートさせる。天職だった記者を辞める。未知のウイルスの恐怖にさらされ続ける──。ここ1年の出来事は、まさに予想外といいましょうか、想像の斜め上をいくものばかりでした。でも、さらに不思議なのは、現在「なるようにしかならない」という境地に達していること。緊急事態宣言発令後しばらくは、不安とも恐怖ともつかない感情が渦巻いていて落ち着きませんでしたが、今はそれがなくなった。コロナ騒動は数年間は収束しないだろうし、ひょっとしたら十数年に渡るかもしれない。だったらもう、上手く適応してサバイブするしかありません。


抗わず、流れに身を任せる。


2021年は、そんなふうに生きていこうかなぁと思っています。

 

借り着より洗い着

私には、3歳下の妹がいます(*私と両親は折り合いが悪いけれど、妹と私の関係は極めて良好です)。妹は割と早くに結婚しましたが、ここでは“現在29歳、独身。好きで好きで仕方がない彼氏と交際中”だと仮定して話を進めさせてください。


彼女が、真剣な面持ちで「将来一緒になりたい人がいる」と、私の前に29歳男性(無職)を連れてきたとしましょう。例えば「彼は専業主夫になる予定だから、結婚後は私の稼ぎで暮らしていく」と宣言されても、別段反対しないと思います。でも、もし「400万円の借金があるけれど、先方が『返さなくていい』と言ってるので返済はしない」とか、「特に何かを成したわけでもないが、一生涯、人様の血税で生活していくつもり」とか言い出した場合、私はどんなに嫌われようが憎まれようが恨まれようが、妹を殴ってでも全力で結婚を阻止します。もしくは、「“生きていくために必要な選択”が彼との結婚」だと主張するならば、彼女とは完全に縁を切り、何があっても家族や親戚、友人達を一切頼らせない。その後彼らが路頭に迷おうと死にかけようと、絶対に手を貸しません。甘やかすことと愛をもって接することは、一見似ているようで全く違います。「獅子の子落とし」とはよく言ったもので、まさにその通りだと思う。


“結婚そのもの”は、確かに個人の自由です。されど、自分たちだけで生活する力(=経済力)もないのに、国民全体がコロナ・失業・格差等でどう見たって苦しんでいるのに、「生きていくために必要」なのが本当に“その結婚”と言えるだろうか。「今必要なことは他にある」と考えないのだろうか。日々、生きるか死ぬかの状況に置かれている方々、心身ともにギリギリの状態で医療に従事している方々、脚光や称賛を浴びずとも、“自分に出来ること”を黙々とこなしている方々──。彼らと全く同じ体験をするのは無理でも、思いを馳せたり心に寄り添ったりすることは出来るはずです。人間には、程度の違いこそあれ“想像力”や“共感力”が備わっているのですから。


人にはそれぞれ、立場や役割というものがあります。役割を果たさないなら、今ある立場を捨てる。今ある立場を守りたいなら、役割をしっかり果たす。それが道理だと思います。そうまでして愛を貫きたければ、その家を出て庶民の暮らしを送ってみるといい。一般市民となったあなたに対し、“愛する彼氏”がどんな態度で接するかも確認出来るだろうし、諸々ちょうどよいのでは? 実際「幸せな時も不幸せな時も寄り添い合えるかけがえのない存在」かどうかを試せる、またとない機会です。イヤというほど、“彼との世界”を味わえばいいと思う。


ところで。私は、“決して有効に使われない”と分かりきっている税金など、鐚一文払いたくありません。納税は国民の義務だけれど、それは泉のごとく湧いてくるものでも、空から降ってくるものでもない。文字通り、私たちが汗水たらして働いて得た報酬の中から、どうにかこうにか捻出しているお金です。庶民じゃない皆様方は、そこをきちんと理解できているのだろうか。1円の重みを、肌で感じたことが果たしてあるのだろうか。


庶民も、そうでない人も、仮に「贅沢したい!」と願うなら、自分で働いて存分に稼げばよいと思います。“自分のお金”でいくら贅沢しようと、誰も文句など言いませんよ。


働かざる者食うべからず。


借り着より洗い着、です。

 

年賀状2021

突然ですが、私は葉書が好きです。旅先では、国内であろうと海外であろうと、現地の絵葉書を必ず購入。名所や名物の写真が刷られているもの、地元のアーティストによる、何が描かれているかはよく分からないけれどもオシャレっぽいもの、超絶ダサいデザインのもの(笑)等々、毛色の違う絵葉書を何種類か買い、“自分へのお土産”にするのが習慣です。また、趣味の一つがカメラなので、旅から戻ると自分で撮った写真を厳選して数枚プリント。それらと絵葉書を一緒くたにし、適当なサイズの額に入れて部屋に飾っています。旅も趣味だから、トータルすれば随分多くの地を訪れており、いろんな額をボーッと眺めているだけでも楽しい。写真や絵葉書というのは「あの国でこんなことがあったなぁ」とか「あそこでお世話になった人、元気にしてるかな?」とか、“瞬時に当時へと戻る”というタイムマシンっぽいことも可能にしてくれます。簡単に旅できない今、“妄想トリップ”するのにちょうどよいアイテムとも言えましょう。


と同時に、「絵葉書って、世界中の人たちが参加してるコンテストみたい」と昔から感じています。私には、同じサイズのキャンバスを『さぁ!あなたならどう使いますかコンテスト』にしか思えない時がある(笑)。縦位置なのか横位置なのか、はたまた斜めか。スペース全体を使うのか、一部分を使うのか。ドーンと大きくデザインするのか、コラージュしたり何分割かしたりするのか。カラフルか、少ない数の色で勝負するのか、モノクロームか。写真メインか、文字メインか。考え出すと止まらないし、絵葉書の向こう側にいる“作り手”を想像するのが楽しくて、気付いたら結構な時間が過ぎていたりもする。だからなのか何なのか、私は年賀状も大好きです。自分が送るのも、友人や仕事関係者から受け取るのも。


前職ではエンタメ系の雑誌記者をしていたので、レコード会社や事務所から届く年賀状が楽しみでした。大抵、歌手や俳優が“本気を出した姿”(和装とかタキシードとかドレスとか)の写真が刷られているからそれだけで気分が華やぐし、一言コメントを書いてくれることも多く、それを読むのも楽しかった。「今年は全国ツアーをやりたいです」「目指せ紅白!」「連ドラ出演が決まりました‼︎」等々。そうそう、毎年社員総出でふざけている(←褒めてます)レコード会社もあったなぁ。歌手のCDジャケットより凝ったデザインにしてみたり、宣伝部長自ら世相を斬るコスプレ(クオリティは劇的に低い・笑)をしてみたり。エンタメを扱う職種にとって、そういう遊び心は非常に大切だと思います、ハイ。


一方、プライベートで年賀状をやり取りしているのは例年20人前後。日頃しょっちゅうLINEする親友もいれば、年賀状でしか連絡を取らない友人・親戚、地方や外国に住む友人もいる。私は16年間飽きもせず同じ雑誌を作っていたくらいなので、基本的に“創作すること”はこの上ない喜び。毎年、旅先で撮った写真の中から美しい風景ショット1枚、面白ショット5〜8枚くらいを選び、組み合わせて絵葉書を作成してきました。別段年賀状っぽさはないのですが(笑)、余分に刷って自分用をキープ。年明け、先述した額にその一枚をプラスし「去年はここに行ったんだなぁ」と浸ったりしています。もう15年くらい続けているけれど、作っていて毎回楽しいですね。


ちなみに、今日まで一番好評だったのは“誤字シリーズ”。新日の国では、看板やメニューなどを日本語で書いてくれているお店も多いのですが、とにかく誤字の量がエグい(笑)。「足マシサージあります」とか「えぴみぞれスーブ」とか「コツプの中にテイーパツクを3分入れてくだちい」とか、惜しいけれども間違っているものをたくさん見かけます。読めないことはないし、何より「頑張って似た字を探してくれたに違いないわ♡」と思うと愛おしくなってついシャッターを押してしまう。気付いたらそういうショットがたまっていたので、番外編として“誤字シリーズ”を作成したところ、それがどの年よりも好評でした。あと、“世界の紙幣&硬貨シリーズ”も評判が良かったな。特に小さい子を持つママ達から、「生きた教材」的なことを言われて感謝されました。そんなつもりは全くなかったものの、役に立てたなら結果オーライです(笑)。


そして、自分が受け取って嬉しいのは、送り主の個性が爆発している年賀状。カメラマンさんの年賀状は、“その年のベストショット”が刷られていることが多いので、毎年すっごく楽しみ。やはりプロが撮る写真というのはスゴイです。レベルが全然違う。あとは、賛否両論あるようですが、家族写真が刷られている年賀状も私は好きです。「◯◯ちゃんの子供、もうこんなに大きくなったんだ!」「長男、お父さんにめちゃ似てきたなぁ」「◯◯さん、だいぶ恰幅がよくなったけど健康状態大丈夫かいな…」「これは一体どこで撮った写真なんだ⁉︎」とか、単純に見ていて楽しかったり、相手の現状が伝わってきたりするからです。確かに、婚活中だったり妊活中だったりすると「幸せな姿を見せつけられているような気がして辛い」と感じてしまう人もいるかもしれないけれど、だからといって「家族写真の年賀状はやめよう」なんて考えなくていいと思います。悪気があるわけじゃないし、あくまで“相手の受け取り方次第”だと思うので。私だって、仮に「家事と育児に忙しくて、とても旅する余裕なんかない。辛いから、旅先での写真は遠慮して」みたいなことを言われたら、その人には年賀状自体送るのをやめます。諸々含め、大変に面倒くさい(笑)。


ただ、一つ残念というか「寂しいな」と感じている年賀状はあります。それは、“子供だけの写真”が刷られたもの。私はその子たちの親と友人なのであって、子供たちの友人ではありません。なのに、友人自身の写真がないと「あぁ、彼女(或いは彼)の様子は分からないのか〜」と若干ガッカリしてしまう。あれって、どうして子供だけの写真なんでしょうね? 考えても考えても、全然分からない…。


さてさて、お正月以外はどこへも旅できなかった2020年。悩んだ挙句、いわば“総集編”のような年賀状を作りました。これまで国内は38都道府県(出張含む)、海外は12ヵ国訪れているため、セレクトだけでもひと苦労。この先数年間は旅に出られない可能性も考え、現状「撮りためた写真を小出しにしていこうかな」と思っています。今まで日の目を見なかった写真たちも、10年以上経って「まさか自分が年賀状の一部になるとは!」と驚いていることでありましょう(笑)。