女風は、用法・用量を守って正しく利用いたしましょう。

既婚ユーザー・ネギブロコの女性用風俗利用日記+日常譚

文は、私を書く

予告を見て「良さそう」と思ったから。友達や恋人に誘われたから。原作のファンだから。推しが出演しているから。興味のあるテーマを扱っているから。思いきり笑いたい・泣きたい・怖がりたい・感動したいから…等々。「どの映画を観るか?」の選考&決定基準はさまざまありましょうし、その時々によっても違うことと思います。

私が今回、下記の作品を観ることにした理由は、ズバリ「タイトルが気になったから」です。

 

『線は、僕を描く』(10/21公開)

〔*ここからは若干ネタバレを含みますので、内容を知りたくない方はご注意ください〕

 

このタイトルを初めて目にしたのは、雑貨屋さんで買い物をした帰り道。コンタクトの調子が悪く、途中で外したため裸眼(←0.1を切っております)で歩いていたのですが、壁に貼られた宣伝ポスターの文字が何となく引っ掛かって一時停止。「何でだろ?」と思い薄目で凝視したところ、“空耳アワー”ならぬ“空目アワー”していたことに気が付きました。

校正者の癖が抜けないのか、反射的に…というか、ごく自然に「僕は、線を描く」と脳内修正してしまっていた私。でも何か違和感があるから、ポスターに近付いて一字一句確認したらば、そこには確かに「線は、僕を描く」と書いてあります。その日以来、「それは一体どういうこと?」と気になって仕方なかったけれど、敢えて検索せず。映画館で答えを知るべく、ワクワクしながら公開日を待ちます。ああいう時間を過ごすのは、とても楽しい。

 

さてさて。僭越ながら感想を申し上げますと、映画自体は「ただただ美しいなぁ」という印象でした。水墨画をテーマにした作品なのですが、劇中に登場する水墨画も、主演俳優さんも、そして光の使い方も、本当に本当に美しかった。けれど、“私の心に響くもの”や“感情を揺さぶられるシーン”は特になかったかな。唯一気分が高揚したのは、西濱湖峰(江口洋介さん)が師匠・篠田湖山(三浦友和さん)の代役として急遽、見事な龍を描き上げた時くらい。私が無類の龍好き+ヒーロー好きということも手伝って(笑)、思わず「カッコイイ♡」という声が漏れそうになりました。

 

ただ、答え合わせはきちんと出来たので大満足です。「あぁ、そういうことか」と納得しましたし、あらためて“言葉の面白さ”や“言葉の可能性”を感じさせてもらい、文字大好き人間(笑)としてはすごく嬉しかったですねぇ。


原作は、砥上裕將(とがみ ひろまさ)さんの小説「線は、僕を描く」。著者ご自身が水墨画家でいらっしゃるので、映画では不十分に感じられた描写(水墨画独特の技法だったり、筆を持つ時の心の在り方だったり)も、小説内では網羅されているものと思われます。ちなみに、堀内厚徳さんが描かれた漫画もございます。2つを読み比べるのも面白そうだな〜。

 

ところで。私のアンテナに引っ掛かりまくったそのタイトルですけれども、調べたところ、2019年に「第59回メフィスト賞」を受賞した際は、全く違う表題だったんだとか。その名も『黒白の花蕾』。非常に優美で、如何にも水墨画に相応しいタイトルのように感じます。ですが、もし映画がこのタイトルだったら、恐らく私は観なかった。「線は、僕を描く」だからこそ興味を持ったんだと思います。

違和感がある。何か気になる、引っ掛かる──

タイトルに限ったことではありませんが、それってすごく大事だなぁと感じています。日常を送る中で“それが引っ掛かる”ということは、つまり無意識のうちに記憶してしまっているということ。そして全貌が見えない分、正体が掴めない分、自分の中でイメージが広がります。


私の頭にパッと浮かんだイメージは、合計3つ。①芸術の世界、②建築の世界、③オーケストラ(指揮者)の世界。どれも“線”と聞いて私が想像するものです。「黒白の花蕾」ももちろん素敵だけれど、イメージはここまで広がらない気がします。仮に「黒白の蕾」や「黒白のつぼみ」であれば、“ツボミ”からいろいろ想像できますが、“花蕾”とある以上、意味は限定される。当然、一発で意味が伝わるタイトルのほうがいい場合もあれど、この作品は、改題によって読者層や観る層がかなり広がったことが予想されます(というか、そのための改題でしょうけども・汗)。

中身は同じなのに、包装紙を変えると間口や届く範囲が大きく広がるって不思議ですよね。繰り返しになりますが、言葉の面白さや可能性を感じてとっても嬉しく、気付くと一人でニマニマしてしまっておりました(笑)。プラス、「将来アニメ化される時が来たら、むしろ『黒白の花蕾』のままがいいな」などと勝手なことを妄想したりして大変楽しかったです♪


 

私は、線と同じように、文章にも“人間そのもの”が滲み出ると思っています。それは、著名な作家であろうとジャーナリストであろうと、ライターであろうとブロガーであろうと、プロ・アマ関係なく同じだと考えています。

私自身、仕事(エンタメ雑誌の記者)として書いていた時も、こうしていちブロガーとして書いている時も、表記の仕方や責任感等に違いはあれど、「自分を殺して記事を書いた経験」は一度もありません。定型文のように見える(かもしれない)“情報ページ”でさえ、密かに「自分の想い」を込めて綴っていました。

ライブレポートやインタビュー記事は言わずもがなで、“そこにある事実”や“取材相手の言動”だけでなく、「自分が相手から受け取ったこと」「自分の五感で感じたこと」を、主張しすぎない程度に入れ込むようにしていました。たとえ同じライブを観ても、同じ相手にインタビューをしても、担当記者が違えば視点や切り口、感じ方他全てが異なりますゆえ、必然的に別物の記事となります。“取材対象者そのもの”と同じくらい、“書き手そのもの”が文に、行間に、句読点に表れると思っています。感情抜きの文章も時には必要だけれど、私は断然、「体温のある記事」のほうが好きです。


はてなをはじめ、多くのブログにおじゃましてみて感じるのは、「『次も読みたい』と思う文章って、上手い・下手、テクニック等はあんまり関係ないんだな」ということ。

例えば、自分の知らない分野でも、その魅力について熱く熱く語っていたり、どうにかして感動を伝えようとする文章には目が留まります。あとは、一見抑揚や特徴がないように見えても、なぜか癖になる文体だったり、文法はめちゃくちゃなのに、心の叫びが手に取るように分かったりする文章も沢山あります。誤字があっても改行が足りなくても句読点の位置が多少変でも、「そんなことは二の次だ」と感じさせてくれる。「そうだよね、ブログって自由だもんね♪」と嬉しくなります。

私も、自分のためだけにつけている手書きの日記は、たまにもんのすごい熱量&文法を無視した殴り書きの時があるのですが、それが結構面白いんですよね。臨場感が半端ないし、妙に筆圧が強かったりもして、読めば途端に“その時の気持ち”が蘇る。当ブログへの投稿は、「万人に公開するのだから」とそれなりに体裁を整え、何度も推敲してからアップしているけれど、時々は感情にまかせて綴ってみてもいいのかもしれません。

でも多分、おいそれとは出来ないんだろうな…(笑)。長年の習慣というのは、良くも悪くも簡単には変えられないものですからねぇ。